セオドア・ルーズベルトの生家(Theodore Roosevelt House)

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セオドア・ルーズベルトの生家(Theodore Roosevelt House)
[ニューヨーク市育ちの第26代合衆国大統領で、ノーベル平和賞受賞であるセオドア・ルーズベルトが14歳まで過ごした生家が復元され一般公開されています。当時の家具や玩具、トレードマークとなった荒馬乗りのエンブレムなどが展示されており時代を偲ばせてくれます。  (「ニューヨーク観光情報:観光名所・ランドマーク」より)]

[セオドア・ルーズベルトは1858年10月27日にセオドア・ルーズベルト・シニア(1831年 – 78年)およびマーサ・ブロック(1835年 – 84年)の4人の子供の2番目、長男としてニューヨーク市の東20番街28番地、現在のグラマシー・パークの一部で生まれた。
1900年、大統領選の副大統領候補として当選、翌年9月大統領マッキンリーの死去(暗殺)に伴い大統領に昇格する。なお就任時の42歳と10ヶ月は史上最年少である。ちなみに、テディベア(その名前は、第26代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトに由来する。)が誕生したのは大統領就任後のことである。1904年セオドア・ルーズベルトの下問で、陸海軍統合会議が、仮想敵国を色で表現した長期的戦略計画と言われているカラーコード戦争計画の一環である、対日本「オレンジ計画(O-range Plans)」の作成に着手。その30数年後、この計画は実行に移された。1905年には日露戦争(1904年2月8日 – 1905年9月5日)で日本・ロシア間の調停をつとめ、停戦からポーツマス条約での和平交渉に尽力した。この和平交渉の斡旋によってルーズベルトは1906年ノーベル平和賞を受賞した。
ポーツマス条約の斡旋に乗り出したのはハーバード大学の同窓生で、面識のあった金子堅太郎(1878年卒業)の働きもあったと言われる。また自身は日本贔屓でもあったようで、アメリカ人初の柔道茶帯取得者であり、山下義韶から週3回の練習を受けるとともに、山下が海軍兵学校で柔道を教えるよう尽力した。東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布している。また、忠臣蔵の英語訳本(『47ローニン』)を愛読していたとの逸話がある。
ただ、日露戦争後は、次第に極東で台頭する日本に対しては警戒心を感じるようになり、やがて贔屓も薄れ、事務的かつ冷淡な場面も見られた。日露戦争後は艦隊(グレート・ホワイト・フリート)を日本に寄港させ強大化しつつある日本を牽制した。いわゆる排日移民法の端緒も彼の時代である。  (wikipedia・セオドア・ルーズベルトより)]

セオドア・ルーズベルト生誕地国定史跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南南西方向がセオドア・ルーズベルトの生家(Theodore Roosevelt House)です。

セオドア・ルーズベルトの生家(Theodore Roosevelt House)のストリートビューです。

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