ピンクニー通り(Pinckney Street)、ルイーザ・メイ・オルコット住居跡

マーカーはルイーザ・メイ・オルコット住居跡です。

ピンクニー通り(Pinckney Street)
[ピンクニー通り20番地は、『若草物語』の作者、ルイザ・メイ・オルコットが一時期暮らした家。四姉妹の長女のアンナと当時20歳だったルイザが、この家で学校を開いたという。一家は1852年~1855年までここで暮らし、その後、ニューハンプシャー州へ、1857年にはコンコードに移り住んだ。  (「地球の歩き方 – ボストン ビーコンヒル」より)]

ルイーザ・メイ・オルコット
[ルイーザ・メイ・オルコット(1832年11月29日 – 1888年3月6日)は、著名な超越主義者(Transcendentalist)であるエイモス・ブロンソン・オルコット(Amos Bronson Alcott)とアビー・メイ(Abby May)の娘であり、現在のペンシルベニア州フィラデルフィアの一部であるジャーマンタウン(Germantown)に生まれた。一家は1834年にボストンへ移住し、そこで彼女の父は実験学校を設立し、またラルフ・ウォルドー・エマソンヘンリー・デイヴィッド・ソローらと共に超越主義者クラブに参加している。
幼少期から成人期初期にかけての間、オルコットは家族の貧困と、超越主義の考えを分かち合っていた。1840年にいくつかの学校設立の試みが挫折した後には、彼女の家族はマサチューセッツ州コンコードのコンコード川(Concord River)沿いにある広さ2エーカーの小屋に移り住んだ。1843年 – 1844年にかけてのわずかな期間には、ユートピア的な共同体であるフルーツランズ(Fruitlands )に移住し、そこが瓦解した後は貸家に住み、さらにその後は母親の遺産とエマソンの援助で購入したコンコードの家「オーチャード・ハウス」(Orchard House)に移住した。オルコット姉妹の幼少期の教育は、自然主義者であるソローも関わったが主に父親によるもので、現代の基準に照らしてもなお非常に独創的かつ革新的なものであった。彼女はまた、家族の友人であるエマソンやナサニエル・ホーソーンマーガレット・フラーなどの作家・教育者達からも教育を受けた。成長するにつれて、オルコットは奴隷制廃止論者、フェミニストとなっていった。
ルイーザ・メイ・オルコットの大成功は、『若草物語』(Little Women: or Meg, Jo, Beth and Amy, 1868年)の第1部が掲載された時から始まった。この物語は、彼女が姉妹達と一緒にコンコードで過ごした少女時代をもとにした半自伝的な話である。
『若草物語』においてはジョーのキャラクターがオルコット自身をモデルにしたものであったにもかかわらず、オルコットはジョーと異なり、生涯結婚しなかった。1879年に彼女の妹のメイが亡くなり、彼女は当時2歳のメイの娘を引き取った。
後半生において、オルコットは女性参政権の主張者となり、コンコードで初めての投票権をもつ女性となった。
健康状態の悪化に反して、オルコットは残りの生涯も物語を書き続け、最後には南北戦争中の労働時に発症した水銀中毒の後遺症で倒れた(彼女は腸チフス患者の治療のためにカロメルを使用していた)。ルイーザ・メイ・オルコットは1888年3月6日、死の床に伏していた父を見舞った2日後にボストンで逝去した。  (wikipedia・ルイーザ・メイ・オルコットより)]

カメラ位置はピンクニー通り20番地で、カメラ南方向がルイーザ・メイ・オルコットが住居した家です。玄関階段左にプレートが設置されています。

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