マーカーはボストン虐殺地跡です。
ボストン虐殺(英語:Boston Massacre)
[1763年2月、フレンチ・インディアン戦争(1755年 – 1763年)が終結すると、イギリス王ジョージ3世とグレンビル内閣は、植民地アメリカへの課税(1764年・砂糖法、1765年・印紙法、1767年・タウンゼンド諸法、1773年・茶法)と支配を強化した。この本国政府による植民地圧迫策は、次第に植民地住民の本国に対する不満を鬱積させ、本国からの離反機運の醸成をもたらす。 (wikipedia・アメリカ独立宣言より)]
[ボストン虐殺事件とは、1770年3月5日にマサチューセッツ植民地のボストンでイギリス軍が民間人5人を射殺した事件のことである。この頃、既に植民地の住民はその3年前、1767年に成立したタウンゼンド諸法に強い不満を持っていた。イギリス軍と植民地の民間人との間の緊張は高まり、暴動を引き起こした。その最中、イギリス軍が民間人暴徒に銃を向け、射殺したのである。のちに独立戦争を引き起こすきっかけともなった事件の1つでもある。
事件はキングストリートで始まった。かつら製造業の若い弟子エドワード・ガーリックが、イギリス軍の士官ジョン・ゴールドフィンチ大尉に散髪代の支払いが遅れていると訴えた。ゴールドフィンチ大尉はその日に支払いを済ませていたのだが、ガーリックに返事をしようとしなかった。ガーリックは1時間後にも苦情を大きな声で訴えていたので、税関の外で歩哨に立っていた兵士ヒュー・ホワイトがガーリックを呼びつけて頭を殴った。ガーリックの仲間が叫びだしたので、イギリス軍の軍曹が彼らを追い払った。弟子達は近くにいた者達を集めて戻ってくると、歩哨に侮蔑の言葉を浴びせ雪玉やくずを投げ始めた。 ホワイトは警衛部隊に応援を頼む知らせを走らせた。その日の当直トーマス・プレストン大尉は第29歩兵連隊から伍長1人と兵士6人を出動させ、自身も直ぐに現場に向かった。暴徒は数が増え、石、棒、氷の塊を投げ続けていた。一団の水夫と造船所の職工が大きな薪を持って現れ群衆の前面に出て兵士達に向き合った。周りの教会の鐘が鳴り、ボストン市民の群衆が更に大きくなり、威嚇的になった。 騒動の最中にヒュー・モントゴメリー兵士が氷の礫を受けて倒れた。彼はマスケット銃を空に向けて威嚇弾を放った。彼が後に弁護士に語ったところでは、その時「撃て!」と叫んだという。1人を除いた兵士が群衆に向けて発砲した。無差別の銃撃で11人が被弾した。即死は3人、数時間後に1人、また2週間後に1人が死亡した。他の6人は命を取り留めた。死者:ロープ製造業サミュエル・グレイ、水夫ジェームズ・コールドウェル、混血の水夫クリスパス・アタックス、17歳のサミュエル・メイブリック(群衆の後ろにいたが跳ね返り弾を受けて翌日死亡)、30歳のアイルランド移民パトリック・カー(2週間後に死亡)。事態の収拾のために翌日イギリス軍当局はすべての軍人を町の中心部からボストン港のキャッスル・アイランド砦に移すことに同意した。
一方、サミュエル・アダムズら独立派は、この事件を「ボストン虐殺」と呼び、反イギリスのプロパガンダとして用いた。彼らはこの事件によって浮かび上がった問題は犠牲者の数の多少ではなく、イギリス政府が軍隊を常駐させ、イギリス議会によって制定された、植民地の法制度に真っ向から反する法律を軍隊の力によって施行しようとする政策にあると主張した。カーを除く4人の合同葬は、その当時の北アメリカでは最大の群集の集まりとなった。翌1771年から1783年にかけては、ボストン町当局はこの事件を忘れないために毎年この事件が起こった日に式典を行った。アメリカ独立宣言の文中にもボストン虐殺事件に対する不満が述べられている。しかし、この事件の裁判で弁護を勤め、のちに第2代大統領となったジョン・アダムスは、その弁護について、「私の人生の中で、最も勇敢で、寛容で、人間的で、公平無私な行動であり、また国に対して行った最善の行いのひとつであった」と述べた。しかし同時に、アダムスはこの事件の歴史的重要性についても認識しており、「アメリカ独立の礎となった」と述べている。
今日では、この事件が起こった場所は、「ボストン虐殺地跡」としてフリーダムトレイル沿いの名所になっている。ボストン虐殺地跡はデボンシャー通り(Devonshire Street)とステート通り(State Street)の交差点付近、旧マサチューセッツ州会議事堂の真向かいに位置している。
「ボストン虐殺事件を描いた版画。地元ボストンの画家ヘンリー・ペラムの原画をもとにポール・リビアが制作した。」・wikipedia-photo、「グラナリー墓地(Granary Burying Ground)にある、事件の犠牲者の墓碑。碑にはこの事件で死去した5人の名が彫られている。」・wikipedia-photo (wikipedia・ボストン虐殺事件より)]
「Boston Massacre Site – Google Map 画像リンク」
カメラ北北東方向の玉石を円形に敷き詰めた碑が虐殺の跡です。