アメリカ独立戦争

「Google Earth で街並散歩(北米・オセアニア編)」で取り上げた、アメリカ独立戦争に関わるページをまとめてみました。

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    アメリカ独立戦争
    [アメリカ植民地が独立への道を歩み始めたそもそものきっかけはイギリス本国による課税の強化にあり、それはフレンチ・インディアン戦争(1754 – 1763)による財政危機の解消を目的としたものであった。
    1764年イギリス議会は砂糖法と通貨法を成立させ、植民地人をさらに当惑させることになった。これに対する抗議として組織的なイギリス製品のボイコットという新しい強力な武器が生まれた。イギリスは同じ年に「宿営法」を通すことにより植民地人に追い打ちを掛けた。これはイギリスの兵隊は特定地域の住民によって世話されるべきものとしていた。1765年に成立した印紙法はイギリスから植民地に課された最初の直接税であった。新聞、年鑑、パンフレットおよび公的文書などの印刷物は、それがトランプの札であっても印紙を貼ることが求められた。13植民地全部が激烈な抗議をし、バージニアパトリック・ヘンリーマサチューセッツジェイムズ・オーティスのような人気のある指導者が大衆を反対意見でまとめた。「自由の息子達」と呼ばれる秘密結社が多くの町で作られ、印紙を売ろうとすれば暴力を使って脅したので、誰も法に従わなかった。ボストンの自由の息子達は副海事裁判所の記録文書を焼き、首席判事トマス・ハッチンソンの優美な屋敷を略奪した。幾つかの植民地政府が共同行動を提案し、1765年10月にニューヨーク市(印紙税法会議 – ニューヨーク市・フェデラル・ホール)で開催された印紙法会議には9つの植民地から代表が集まった。中庸派のジョン・ディキンソンが「権利と不満の宣言」を書き上げ、代表なくして議会を通した課税案が古代からの権利を侵していると主張した。議論の重点はイギリス製品のボイコットにおかれ、植民地の輸入高は1764年の225万ポンドから1765年の194万ポンドに減った。ロンドンのロッキンガム内閣が権力を握っていたイギリス議会では、印紙法を廃案にするか、あるいは強制するために軍隊を送るかという議論になった。ベンジャミン・フランクリンが雄弁にアメリカの事情を語った。植民地はフランスとインディアンに対する一連の戦争で、イギリス帝国の防衛のために兵力、金を提供し、そして血を流した。その戦争の費用を払うために税金を課されることは不公平であり、反乱を呼ぶことになると論じた。議会は法の撤廃に同意したが、1766年の「宣言法」により「如何なる場合も」イギリス議会は植民地の法を作る絶対的な権利を保有すると主張した。
    1767年にイギリス本国議会タウンゼンド諸法を制定して植民地へ新たに税を課そうと試みると、またも反対運動が盛り上がり、1770年にタウンゼンド関税も撤廃された。だが、このとき茶に対する課税は廃止されず、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。
    1770年3月5日、ボストンで群衆が集まって一群のイギリス兵を取り囲んだ。群衆の脅しはその程度を増していき、雪玉や瓦礫を兵士に投げつけ始めた。混乱の中でほとんど全員の兵士が群衆に向かって発砲した。11名が撃たれそのうち5名が死亡した。この出来事は直ぐにボストン虐殺事件(ボストン虐殺地跡)とよばれるようになった。虐殺の詳細が誇大に広く伝えられ植民地人の感情をイギリスに対する反感に変えていった。この事件は特にマサチューセッツにおけるイギリスと植民地の間の関係を負の循環に巻き込んでいった。
    一連の出来事が最終的には戦争勃発の引き金になった。1772年6月、ガスペー事件(Gaspee Affair)が起こった。不人気な貿易規制を活発に強制する活動を行っていたイギリスの艦船ガスペー号がアメリカの愛国者(自由の息子達)によって燃やされた。その後直ぐに、マサチューセッツのトマス・ハッチンソン知事は、知事と判事がロンドンから直接給与が払われていることを報告したが、これは植民地議会を無視するものであった。1772年遅く、サミュエル・アダムズは13植民地全体を繋ぐ通信委員会を新しく作り、革命勢力の政府となる枠組みを作った。1773年早く、最大の植民地であるバージニアがその通信員会を創設し、パトリック・ヘンリーやトーマス・ジェファーソンが任務にあたった。
    1773年の茶法によって東インド会社のお茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が乱入し、積載されていた茶を海に投棄した(ボストン茶会事件)。(ボストン・ティー・パーティー・シップ博物館)
    こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)は滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地と和解するようはたらきかけた。しかし、首相フレデリック・ノースは国王ジョージ3世(在位:1760 – 1820年)の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。
    一連のイギリス側の政策に対し、13植民地は対策協議のために大陸会議を開いて本国との和解の道を探ったが、打開できないままであった。(フィラデルフィア – ヨーク)
    1774年、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。
    植民地人のいわゆる「耐え難き諸法」は、イギリス議会が法制化した4つの法律からできていた。1つ目は「マサチューセッツ統制法」であり、マサチューセッツに対する特許を修正し、町の集会を制限した。2つ目は「司法管理法」であり、イギリス兵が法廷に召喚されるとしても植民地ではなく、イギリス本国の法廷でということにされた。3つ目は「ボストン港法」であり、ボストン茶会事件で失われた茶の弁償が済むまでボストン港を封鎖することであった。ただし、茶の弁償は結局なされなかった。4つ目の法は1774年の「宿営法」であり、知事が使われていない建物をイギリス兵の宿舎に当てることを許可していた。1774年秋に開催された第一次大陸会議は「耐え難き諸法」が憲法に反しているという、いわゆるサフォーク決議を採択し、大衆には民兵の組織化を、マサチューセッツには愛国者の政府を作ることを要求した。
    このことを受けて、特にマサチューセッツ統制法に対応するためにウースターの住民は土地の政庁舎の前で武装したピケを張り、イギリスの判事の入庁を拒んだ。同じような出来事が植民地中で起こった。イギリスは本国から増援隊を送ったが、その部隊が到着する前に、防御の厚いボストン市を除くマサチューセッツ植民地全体が地域の事情に関してはイギリスの統制から外れてしまった。
    開戦前のボストンでは反抗的活動が続き、1774年にイギリス政府は懲罰のためマサチューセッツ統治法を制定して自治を取り上げた。しかし、この政策は民衆の間に反発を広げる結果となり、新たに本国から任命された役人は辞職したり暴徒に追われてボストン市内を逃げ惑うことになった。イギリス軍北アメリカ総司令官になったトマス・ゲイジ中将はボストン市内の本部からイギリス正規兵4個連隊を指揮していたが、市内を外れれば革命勢力の手中にあった。
    1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州コンコードに植民地民兵が保管している弾薬を押収し、反乱の指導者を逮捕するために700名の部隊を派遣した。革命勢力に属するポール・リビア(ポール・リビアの家)などの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ったが成果を上げられなかった。イギリス軍がボストンに引き揚げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。このレキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まった。
    第二次大陸会議が戦争の始まった後の1775年5月に招集された。大陸会議は大陸軍を創設し、和解のためにオリーブの枝請願をロンドンに送った。イギリス国王ジョージ3世はその受け取りを拒否し、その代わりに反乱状態を宣言して「裏切り者」に対する行動を要求した。この後1783年まで具体的な和平交渉は無かった。
    ベンジャミン・フランクリンによって作成された「戦いに加われ、さもなくば死を」の漫画。イギリスに対抗するために植民地の団結を繰り返し訴えた。
    その知らせは瞬く間に13植民地中に広まり、植民地は民兵を召集してボストン包囲のために派遣した。
    民兵達はボストンに集結し、ボストン包囲戦が始まった。約4,500名のイギリス援兵が大西洋を渡って到着し、1775年6月17日、ウィリアム・ハウ将軍の指揮するイギリス軍がバンカーヒルの戦い(バンカーヒル記念塔)でチャールズタウンの半島を占拠した。植民地軍は後退したが、イギリス軍の損失が大きく次の攻撃に移ることが躊躇された。包囲戦は破られず、イギリス軍の指揮官はゲイジからハウに挿げ替えられた。
    1775年7月、新しく指名されたジョージ・ワシントン将軍がボストン郊外に到着し、植民地軍の指揮を執り、大陸軍を組織化した。ワシントンは自軍に弾薬が不足していることを認め、新しい入手源を求めた。武器庫を襲撃したりまた製造も試みられた。1776年末までの軍需物資の90%は輸入に頼った。その総額は200万ポンドに上り、輸入元の大半はフランスからのものであった。
    手詰まり状態が秋から冬まで続いた。1776年3月早く、愛国者がタイコンデロガ砦で捕獲した大砲がヘンリー・ノックス少佐によってドーチェスター高地に運び上げられた。大砲がイギリス軍を見下ろす形になったので、ハウ将軍は防衛できないと判断し、3月17日にボストン市を明け渡し、船でノバスコシアハリファックスの海軍基地まで移動した。その後ワシントンはニューヨーク市を守るために大陸軍の大半を移動させた。
    ボストン方面で膠着状態に陥ってる間、大陸会議は戦争の主導権を掴もうと他方面で作戦行動を起こした。大陸会議は当初、フランス系カナダ人の領土を14番目の植民地として加えようと動いていたが、これに失敗するとカナダ侵攻作戦を承認した。その目的はフランス人の多いケベックからイギリスの支配を取り除くことであった。
    カナダに向け2つの遠征隊が派遣されたが、そのうちの1つ、リチャード・モントゴメリー准将率いる1,700名の民兵隊は1775年9月16日にタイコンデロガ砦を発進し、11月13日にはモントリオール(シャトー・ラムゼイ)を落とした。カナダの知事ガイ・カールトンはケベック市に撤退した。2つ目の遠征隊はベネディクト・アーノルド大佐に率いられた部隊で、東からケベック市に迫ったが、兵站に苦しみまた天然痘で倒れる者が多かった。11月初めにアーノルド隊がケベック市に到着した時、当初1,100名いた部隊は600名にまで減少していた。合流したモントゴメリー隊とアーノルド隊は12月31日にケベック市を攻撃する(ケベックの戦い)が、カールトンによって完璧に打ち負かされた。その後も大陸軍は1776年春までケベック市の郊外に駐屯していたが結局は退却した。カナダは大陸軍側よりも多くの兵力を擁し、戦線を堅守した。(モントゴメリー隊の攻撃ソルト・オ・マテロー(Sault au Matelot))
    大陸軍はもう一度ケベックまで押し返そうと試みたが、1776年6月8日のトロワリビエールの戦いで敗北した。カールトンは逆襲に転じ、10月にはバルカー島の戦いでアーノルドの水軍を破る。アーノルドはカナダ侵攻作戦の出発点であったタイコンデロガ砦まで退却した。カナダ侵攻作戦は大陸軍にとって悲惨な結果に終わったが、アーノルドの工作でイギリス軍による全面的な反攻を遅らせることができた。
    このカナダ侵攻により、アメリカはイギリス世論における支持基盤を失った。「だからアメリカに対する武力行使はこの国のあらゆる階層と職業の人々に快く受け入れられ支持されるのだ」
    1776年3月にジョージ・ワシントンを総司令官とした大陸軍は、イギリス軍をボストンから撤退させた。革命勢力は13植民地の全てを確保し独立を宣言する準備が整った。多くの王党派の存在があったが、1776年6月時点ではどこも支配してはいなかった。イギリスの役人も全て逃亡した。
    1776年7月4日、大陸会議はアメリカ独立宣言を採択した。(アメリカ独立記念館)
    イギリス軍のハウ将軍はボストンから撤退した後でニューヨーク市の奪取に焦点を絞った。大陸軍のワシントンはニューヨークの防衛のためにロングアイランドとマンハッタンの間に2万名の軍隊を分けた。イギリス軍がスタテン島に集結する間に、ワシントンは新しく発行されたばかりのアメリカ独立宣言を兵士達に読み聞かせた。もはや妥協の余地は無くなっていた。1776年8月27日、ロングアイランドに上陸した22,000名のイギリス軍は、独立戦争の中でも最大の会戦となったロングアイランドの戦い(スターリング砦)で大陸軍を駆逐し、ブルックリン・ハイツまで後退させた。ハウはそこで包囲戦を行おうとしたが、ワシントンは軍もろともマンハッタンに脱出できた。(ブルックリンの渡し)
    9月15日、ハウは約12,000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸させ、直ぐにニューヨーク市を支配した。大陸軍はハーレム・ハイツまで退き、翌日ハーレム・ハイツの戦い(モリス・ジュメール邸博物館)がおこったが、なんとか陣地を確保することができた。ハウがワシントン軍を囲むように動いたとき、大陸軍はさらに後方に退いたうえで、10月28日にホワイトプレインズの戦いが起こった。ワシントン軍は後退を繰り返したので、ハウはマンハッタンに戻りワシントン砦を占領して約2,000名を捕虜にした。捕虜の数はロングアイランドの戦いの時と合わせて3,000名に上った。この後、ニューヨークで悪名高い「監獄船」が始まり終戦まで続いた。この監獄船で独立戦争のどの戦いよりも多くのアメリカの兵士や水夫が放って置かれたまま死んだ。(パットナム砦(監獄船犠牲者の追悼碑)オールドストーンハウス(J・J・バーン公園))
    チャールズ・コーンウォリス将軍がワシントンを追ってニュージャージーまで進軍し、大陸軍は12月早くにデラウェア川を渡ってペンシルベニアまで後退した。このニューヨークからニュージャージーと続いたイギリス軍の方面作戦も冬に入って一旦停止し、ニュージャージーで冬の宿営に入った。ハウは何度も消耗を繰り返す大陸軍を潰す機会がありながらしくじってはいたが、5,000名以上のアメリカ兵を殺すか捕虜にしていた。
    大陸軍の前途は多難であった。大陸軍と共に撤退を繰り返していたトマス・ペインは「今が兵士の心を試す時だ」と書き記した。使える兵力は5,000名足らずになっていた。兵士は1年で就役期間が終わるので12月末がくれば、1,400名まで減ることになっていた。大陸会議は絶望のうちにフィラデルフィアを捨てた。ただしイギリス軍の占領に対する大衆の反抗は強くなっていた。
    ワシントンは年が改まる前に攻撃することに決め、クリスマスの夜に密かにデラウェア川を渡って12月26日、トレントンの戦いで1,000名近いヘシアン(ドイツ人傭兵)を捕虜にした。コーンウォリスはトレントンを再度奪取しようと進軍してきたが、ワシントンはその裏をかき、1777年1月3日のプリンストンの戦いでイギリス軍の後衛部隊を打ち破った。ワシントンはアメリカ側の士気を高めることができたので、その後、モリスタウンで冬の宿営に入った。ニュージャージーの民兵は冬の間もイギリス軍やヘシアンに嫌がらせを続け、イギリス軍はニューヨーク市周辺まで撤退することになった。
    その後、アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。  (wikipedia・アメリカ独立戦争アメリカ合衆国の独立より)]