シャトー・ラムゼイ

マーカーはシャトー・ラムゼイです。

シャトー・ラムゼイ(Château Ramezay)
[シャトー・ラムゼイは、1705年モントリオール総督クロード・ド・ラムゼイの私邸として建てられた。その後も歴代カナダ総督の官邸として利用された。1775年から、アメリカ独立戦争時には大陸軍 (アメリカ)のためのカナダの本部になった。1776年に、ベンジャミン・フランクリンがここに一泊している。現在は、18~19世紀の家具・衣装・美術品などを展示する博物館として公開されている。
「シャトー・ラムゼイ」・wikipedia-photo、「シャトー・ラムゼイ(1900-1925)」・wikipedia-photo、「シャトー・ラムゼイの庭園」・wikipedia-photo]

カナダ侵攻作戦
[カナダ侵攻作戦(英: Invasion of Canada)は、アメリカ独立戦争初期の1775年から1776年にかけて、新設間もない大陸軍の主導によって行われた最初の作戦行動である。作戦の目的はイギリス領ケベックを軍事支配し、フランス語を話すカナダ人に13植民地の側で革命に加わるよう説得することだった。
大陸軍から2つの遠征隊が派遣された。1隊はリチャード・モントゴメリー将軍の指揮で1775年の8月下旬にタイコンデロガ砦から出発し、9月半ばにモントリオールの南にある主要防御地点であるセントジョンズ砦の包囲を始めた。11月にこの砦を落とされた後で、イギリス軍ガイ・カールトン将軍はモントリオールを放棄してケベック市に逃亡した。モントゴメリーはモントリオールを占領したときにカールトン将軍をもう少しで捕まえるところだった。もう1隊はベネディクト・アーノルドの指揮でマサチューセッツ湾植民地ケンブリッジを出発し、メインの荒野を艱難辛苦して通り抜けてケベック市に達した。荒野を通る大変な行軍のために残っている兵士は飢えており、物資や装備も欠けていた。
2隊は12月にケベック市の前で合流し、1775年の大晦日、暴風雪の中でケベック市を強襲した。この戦闘でモントゴメリーは戦死し、アーノルドは負傷したが、市を守るイギリス軍にはほとんど損失が無く、大陸軍にとって悲惨な敗北になった。その後アーノルドは無益な市の包囲を始めたが、その間に行われた情報宣伝活動によってロイヤリストを支持する声が高まり、またモントリオールでのデイビッド・ウースター将軍の失政には大陸軍を中傷する者だけでなく支持する者からも不満の声が上がった。
イギリス軍は1776年5月にケベック地方の戦力を補強するために、ジョン・バーゴイン将軍とドイツ人傭兵を含む数千名の援軍を派遣した。増援を得たカールトンは大陸軍に反撃を試み、天然痘で弱り組織が乱れていた大陸軍を7月にはタイコンデロガ砦まで押し戻した。一方アーノルド指揮下の大陸軍はイギリス軍の歩みを遅らせることに成功し、1776年の間はタイコンデロガ砦への攻撃をできないようにした。この侵攻作戦の終了後、バーゴインがハドソン川流域の支配を目指した1777年のサラトガ方面作戦に続いた。  (wikipedia1・カナダ侵攻作戦より)]

ラムゼイ城博物館 – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向がシャトー・ラムゼイです。

カメラ東北東方向がシャトー・ラムゼイで、右方向通路が庭園方向です。

シャトー・ラムゼイ庭園のストリートビューです。

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