ブルックリンの渡し

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ブルックリンの渡し(ロングアイランドの戦い)
[午前9時、ジョージ・ワシントンマンハッタン島からブルックリンに渡った。ワシントンはロングアイランドへの攻撃が陽動行動だと思っていた誤りを悟り、マンハッタン島からさらに多くの部隊をブルックリンに移動させるよう命令した。ワシントンが戦場のどこにいたか、証言が様々なので不明だが、最も可能性が高いのは戦闘を良く見ることができたブルックリンハイツである。
西側の大陸軍の右翼では、ウィリアム・アレクサンダー将軍(スターリング卿)が依然としてグラントの部隊に対して戦線を保持していた。スターリングは4時間も踏ん張ったがこの時点でもイギリス軍が側面を衝いたことを知らず、イギリス軍が自軍の陣地を奪取できなかったので、この日の戦闘に勝ちつつあるとすら思っている者もいた。しかし、午前11時までにグラント隊は2,000名の海兵で補充されてスターリング隊の中央を攻撃した。スターリング隊はその左翼をドイツ人傭兵部隊にも攻撃されていた。スターリング隊は後退したが、この時にはその後方にもイギリス兵が迫っていた。残された逃走ルートは幅80ヤード (72 m) の湿地とクリークを越えていくものだけであり、その向こうがブルックリンハイツだった。スターリングはメリーランド連隊の250名を残し、他の全ての兵士にクリークを渡るよう命令した。メリーランド連隊の250名がイギリス軍を攻撃し、他の者が撤退する時間を稼いだ。スターリングは250名を率いてイギリス軍に対し6度の連続攻撃を行い、部隊が殲滅されるまで戦った。ワシントンが近くの丘からその光景を見ており、「おお神よ、何と勇敢な仲間をこの日に失わなければならないのか!」と言ったとされている。スターリングは残っていた兵士にどんな手段を使ってもブルックリンの戦線まで後退するよう命令した。兵士の何人かは銃火の下を泥に潜って湿地を渡ろうと努め、泳げない者は捕虜になった。スターリングは降伏を考え、イギリス軍には降伏したくなかったので、その戦線を突き破ってフォン・ハイスターの率いるドイツ人傭兵部隊の所まで行き、そこで降伏した。イギリス軍の兵士達は前進を止めることを望まなかったが、ウィリアム・ハウ将軍はその多くの士官達がブルックリンハイツまで押し進むべきと信じた意志にも反して全軍停止を命令した。ハウは士官達の意見に同意しなかった。塹壕で待ち構える大陸軍に襲い掛かるのではなく、それを突き破るための秩序だった包囲戦の準備を始めた。
ワシントンとその軍隊はブルックリンハイツで囲まれ、背後はイースト川だった。その日が暮れると、イギリス軍は塹壕を掘り始め、緩りと大陸軍の防衛線に接近していった。こうすることで、前年にボストンでやったように大陸軍の防衛線に対して開けた戦場で攻撃を掛ける必要がなくなるはずだった。この危険な状況にあったにも拘らず、8月28日にワシントンはさらに1,200名の部隊をマンハッタン島からブルックリンに渡らせた。到着した兵士はペンシルベニアの2個連隊とジョン・グロバー大佐のマサチューセッツ部隊だった。ペンシルベニアの部隊を指揮していたトマス・ミフリンは到着後に防衛線の外の偵察を買って出て、ワシントンにその結果を報告した。防衛線の外では小さな小競り合いが続いていた。8月28日午後に雨が降り始め、ワシントンとその砲兵隊は夜間に入ってもイギリス軍に対する砲撃を行った。
雨が降り続いたので、ワシントンは、マンハッタン島との間のキングス橋(現在はブロンクス)にいたウィリアム・ヒース将軍に伝令を送り、wikipedia-photo、「1951年発行の175周年記念切手に採用された軍隊を脱出させるワシントン。右手にフルトンの渡し場が描かれ、背景にはイースト川に浮かぶ平底船がある。」・wikipedia-photo  (wikipedia・ロングアイランドの戦いより)]

ブルックリン・ブリッジ・パーク – ピア 1 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向がブルックリンの渡し?

ブルックリン・ブリッジ・パーク – ピア 1

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