マーカーはバーンズ・コレクションです。
バーンズ・コレクション(英語:Barnes Foundation)
[バーンズ・コレクションは、現在はフィラデルフィアの中心部に近い財団の「施設」に展示され、公開されています。施設の正式名は「The Barnes Foundation Philadelphia Campus」のようですが、以降、この「施設」も、その中の「展示作品」も区別せずに「バーンズ・コレクション」と表記します。
バーンズ・コレクションは基本的に予約が必要です。人数に余裕がある時は予約なしでも入場できるようなのですが、日本から行って入場できない(ないしは数時間後に来てくれと言われる)のはまずいので、必ず予約してから行きましょう。予約は日本からもウェブサイトで可能です。何月何日の何時ということを指定して予約します。
バーンズ・コレクションのポイントの一つは「完全な日本語音声ガイド」があるということです。「完全な」という意味は『音声ガイドが設定されている作品すべてに日本語のガイドがある』という意味です。 (「No.95 – バーンズ・コレクション:クラバートの樹:So-netブログ」より)]
[バーンズ・コレクション(The Barnes Foundation)は、フィラデルフィア郊外メリオンにある美術財団である。コレクターであり美術研究者であったアルバート・C.バーンズが収集したフランス近代絵画2500点以上を擁する個人コレクションが所蔵されており、美術館としても名高い。陳列室のみフィラデルフィア中心地への移転が決まっており、2012年5月19日に開館することがアナウンスされている。
アルバート・C・バーンズは1910年より本格的に美術品の収集を開始した。1922年には自身のコレクションを管理・教育的目的のため財団を設立し、ペンシルバニア大学と提携して教育プログラムを実施した。バーンズはルノワールやマティスに関する研究書や理論書を何冊も著わしており、単なるコレクターではなく研究者であったと言える。当時アメリカでは印象派の作品は低く評価されており、バーンズは自身のコレクションを批判され、以後その観覧を教育目的以外では非公開とした。バーンズは他の研究者や批評家と軋轢が絶えなかった事でも知られ、エルヴィン・パノフスキー、メイヤー・シャピロ、T・S・エリオット、ル・コルビュジエなどはコレクション観覧を断られている。画家のアンリ・マティスとは良好な関係を築き、1930年にはマティスによる中央ギャラリーの壁画《ダンス》が完成した。
バーンズの死後もそのコレクションは非公開、非複製、売却禁止といった遺言によって長らく門外不出であったが、展示室の全面改修の基金集めの目的で、ワシントンのナショナル・ギャラリー、パリのオルセー美術館、1994年には東京の国立西洋美術館にその一部が貸出された。
2002年9月、バーンズ財団理事会より、それまでメリオンにあった財団をもっとアクセスのよいフィラデルフィア中心部へ移転したいと、モンゴメリー郡裁判所に運営規則を変更する許可が申請された。財団の財政難がその理由であった。2年後の2004年に移転の許可が下りたが、これは創立者のアルバート・C・バーンズの遺志を無視することになるとして、反対運動も起こった。しかし2012年5月にベンジャミン・フランクリン・パークウェイにオープンすることが決まっており、メリオンには樹木園と資料室が残されることになる。
フランス近代絵画の中にはルノアール181点、セザンヌ69点、マティス60点、パブロ・ピカソ46点、スーティン21点、ルソー18点、モディリアニ16点、ドガ11点、ゴッホ7点、スーラ6点、マネ4点、クロード・モネ4点が含まれる。
その他エル・グレコやゴヤの作品、エジプト美術なども所蔵している。
コレクションはアルバート・C・バーンズの私邸だった館に展示されているが、その展示方法は他に類を見ないものである。作品は作者別や年代別ではなく、展示されている家具やその他の美術品・装飾品と共に色彩、構成、形、バランスを考慮し、バーンズの独特の美学に基づいて展示されている。公開日は季節により変わるが金、土、日の週三回のみで、事前予約がないと入れなかった。2012年の移転後も入館は予約制である。 (wikipedia・バーンズ・コレクションより)]
バーンズ・コレクション平面図(拡大図・「Billie Tsien Architects, Michael Moran · The Barnes Foundation」より)
「Barnes Foundation – Google Map 画像リンク」
バーンズ・コレクションのストリートビューで、カメラ西南西方向がバーンズ・コレクション進入路です。
バーンズ・コレクション前のカメラです。
ピエール=オーギュスト・ルノワール作『浴女たち(ニンフ)』(1918年-1919年)
ファン・ゴッホ作『静物:マヨリカ焼きの水差しと野の花々』(1888年5月)(wikipedia-photo)
フィンセント・ファン・ゴッホ作『タバコを吸う人』(1888年12月)(wikipedia-photo)
ファン・ゴッホ作『郵便配達人ジョゼフ・ルーラン』(1889年4月)
[1888年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだった弟テオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。
しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。
退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。
1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。
ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。
そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。
病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめ。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホより)]