マーカーはボストン美術館です。
[グーグル・アート・プロジェクトは、グーグル社のストリートビュー技術をそのまま美術館内部にまで持ち込み隅々まで撮影し、web上で公開しています。]
ボストン美術館 (英語:Museum of Fine Arts, Boston)
[ボストン美術館は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市にある、世界有数の規模をもつ美術館である。ボストン美術館は1870年地元の有志によって設立され、アメリカ合衆国の独立百周年にあたる1876年に開館した。王室コレクションや大富豪のコレクションが元になった美術館と異なり、ゼロからスタートし、民間の組織として運営されてきたという点は、ニューヨークのメトロポリタン美術館と類似している。所蔵品は50万点を数え、「古代」、「ヨーロッパ」、「アジア、オセアニア、アフリカ」、「アメリカ」、「現代」、「版画、素描、写真」、「染織、衣装」および「楽器」の8部門に分かれる。エジプト美術、フランス印象派絵画などが特に充実している。2010年には北中南米の芸術を展示するアメリカ州芸術ウィングが増築され、28%の増床となった。ボストン美術館は、仏画、絵巻物、浮世絵、刀剣など日本美術の優品を多数所蔵し、日本との関係が深いことでも知られる。20世紀の初めには、岡倉天心が在職しており、敷地内には彼の名を冠した小さな日本庭園「天心園」が設けられている。
外観・wikipedia-photo、内部・wikipedia-photo
主な収蔵品
収蔵品画像のほとんどは、公式サイトから検索・閲覧可能である。
ヨーロッパ
「カルロス皇子と侏儒(1632年、ディエゴ・ベラスケス)」・wikipedia-photo、「チャールズ一世の娘、王女マリー(1637年、アンソニー・ヴァン・ダイク)」・wikipedia-photo、「ラ・ジャポネーズ(1875年、クロード・モネ)」・wikipedia-photo、「ブージヴァルのダンス(1883年、ピエール=オーギュスト・ルノワール)」・wikipedia-photo、「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン(1888年、フィンセント・ファン・ゴッホ)」・wikipedia-photo、「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女(1889年、フィンセント・ファン・ゴッホ」・wikipedia-photo、「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか(1897年 – 1898年、ポール・ゴーギャン)」・wikipedia-photo、「自画像(1898-1900年、ポール・セザンヌ)」・wikipedia-photo、「種まく人(1850年、ジャン=フランソワ・ミレー)」・wikipedia-photo
アメリカ
「ワトソンと鮫(1778年、ジョン・シングルトン・コプリー)」・wikipedia-photo、「デラウェアの渡河(1819年、トマス・サリー)」・wikipedia-photo、「エドワード・ダーレイ・ボイトの娘たち(1882年、ジョン・シンガー・サージェント)」・wikipedia-photo
日本
吉備大臣入唐絵巻(平安時代)・wikipedia-photo、平治物語絵巻(鎌倉時代)・wikipedia-photo
その他
メンカウラー王と王妃像(古代エジプト)・wikipedia-photo、ジェフティナクト墳墓の埋葬品群(古代エジプト)・wikipedia-photo (wikipedia・ボストン美術館より)]
「ボストン美術館 見どころ 有名作品 おすすめの周り方徹底紹介 …」
ボストン美術館平面図(マップ詳細はこちら – ボストン美術館.pdf)
カメラ北北西方向がボストン美術館です。
ボストン美術館大階段前のストリートビューで、カメラ北北西方向階段上がロタンダ2階になります。
1階シャピロ・コートヤード(Shapiro Family Courtyard)のストリートビューで、カメラ東北東方向がArt of the Americasになります。
1階-133 – Kristin and Roger Servison Gallery・デラウェアの渡河(1819年、トマス・サリー)
1階-128 – Norma and Roger Alfred Saunders Gallery・ワトソンと鮫(1778年、ジョン・シングルトン・コプリー)
Art of the Americas側階段中段から見たシャピロ・コートヤード(Shapiro Family Courtyard)です。
2階-232室 – ジョン・シンガー・サージェント『エドワード・ダーレイ・ボイトの娘たち』(1882年)
2階-232室 – ジョン・シンガー・サージェント『Mrs. Fiske Warren (Gretchen Osgood) and Her Daughter Rachel』(1903年)
ロタンダ2階のカメラで、カメラ北北西方向が250室になります。
2階-250室 – アンソニー・ヴァン・ダイク『チャールズ一世の娘、王女マリー』(1637年)
2階-250室 – エル・グレコ『Fray Hortensio Félix Paravicino』
Art of Europeの247室のカメラで、カメラ南南東方向がロタンダ、250室、カメラ西南西方向が251、252室方向で、カメラ東北東方向が245、246室になります。
2階-252室 – カメラ初期設定方向中央・エドワード・バーン=ジョーンズ『Hope』
2階-253室 – ポール・セザンヌ『自画像』(1898-1900年)
2階-255室 – 『14歳の小さな踊り子(La Petite Danseuse de Quatorze Ans)』(1881) ドガの生前に唯一発表された彫刻作品。
2階-255室 – クロード・モネ、右『Rouen Cathedral Façade and Tour d’Albane (Morning Effect)』(1894年)、左『ジヴェルニー近郊のセーヌ川の朝』(1896年)
2階-255室 – クロード・モネ、右『積みわら – 朝の雪の効果』(1891年)、左『睡蓮』(1905年)
2階-255室 – フィンセント・ファン・ゴッホ作、カメラ初期設定方向中央『郵便配達人ジョゼフ・ルーラン』(1888年)、右『渓谷』(1889年12月)(wikipedia-photo)、左『オーヴェールの家々』(1890年5月)(wikipedia-photo)、カメラ左方向室角右、ポール・セザンヌ『Turn in the Road』、その右上、ポール・セザンヌ『The Pond』、下ポール・セザンヌ『Fruit and a Jug on a Table』
(拡大画像へリンク)
ファン・ゴッホ作『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』(1889年2月)(wikipedia-photo)
(拡大画像へリンク)
[1888年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。
『先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。
— 『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日』
ファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。
ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだった弟テオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。
しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。
退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャンとの共同生活より)]