戦争とファシズムへの戒めの記念碑

マーカーは戦争とファシズムへの戒めの記念碑の「暴力の門」です。

[ドイツにおいて多くの国民から支持を受け、議席および勢力の拡大を続けていたナチス党の活動はオーストリアにも波及してきた。1932年の地方選挙において、オーストリア・ナチス党は既存の右派集団である護国団を上回る実力を見せ、一方護国団の一部が暴走してクーデター計画を立てて失敗したことによって、保守的・反共的な思想の人々の支持が急速にナチスに移りつつあった。
翌年、ドイツで(オーストリア生まれの)ヒトラー政権が誕生すると、その支援を受けたオーストリアのナチス党員が公然と暴力によるオーストリアの政権奪取とドイツへの併合を主張し始めた。キリスト教社会党と護国団を基盤としたドルフス政権は1934年の2月内乱をきっかけに、オーストリア社会民主党とナチスの禁止に動いた。そして、いわゆるオーストロファシズム体制と呼ばれる一種のカトリックの権威に基づいた権威主義体制を打ち立てた。これには、ドイツと友好的な関係を持ちつつも、ドイツによるオーストリア併合に反対するイタリアムッソリーニの支援があった。
1934年7月25日、オーストリア・ナチスは首相官邸を襲撃してドルフス首相を殺害し、親ナチス派のアントン・リンテレン(de:Anton Rintelen)元文相の組閣を要求するクーデターを起こした。このクーデターはヴィルヘルム・ミクラス大統領から全権を委任されたクルト・シュシュニック教育相に鎮圧された。オーストリア国内にはナチスへの嫌悪感が高まり、却って今まで国内に存在していた「ドイツとの合併」論を吹き飛ばしてしまった。また事件が発生した直後、イタリアは国境地帯に4個師団を集結させており、ドイツの介入を牽制した。ムッソリーニのヒトラーに対する心証も悪化し、ヒトラーを口を極めて罵っている。このためヒトラーは、首相経験者で国際的な名士でもあったフランツ・フォン・パーペン副首相をオーストリア公使に任命し、事態の収拾に当たった。
だが、国際情勢は推移し、ドイツ側に有利な情勢となった。1935年に英独海軍協定が結ばれて以降、イギリスはヒトラーとの「宥和政策」を外交の基本路線とするようになった。イタリアもまたエチオピア侵攻による国際的な孤立から、ドイツと協調するベルリン・ローマ枢軸路線に転換し、オーストリア問題から手を引きつつあった。これを好機とみたヒトラーはシュシュニックに対して攻勢に出た。1936年7月11日、独墺協定が結ばれ、表面上はドイツはオーストリアの独立を認めるとしながらも内実はオーストリア・ナチスへの恩赦と政治参加を容認させるものとなった。さらに護国団の指導者であるエルンスト・シュターレンベルクがこの協定に反対すると、11月にシュシュニックは護国団を解散させた。
1938年2月12日にベルヒテスガーデンでヒトラーとシュシュニックは会合を行い、ヒトラーはオーストリアを保護下に置くための幾つかの要求を行った。ヒトラーの要求は到底受け入れられるものではなかったが、結局シュシュニックは2月18日にオーストリア・ナチスに転向していたアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命する。だが、既にオーストリア国内ではオーストリア・ナチスが公然と政府打倒とドイツへの併合を求める動きを開始していた。
シュシュニックには、奥の手として暖めておいた秘策があった。それは国民投票を実施してオーストリア国民に「ドイツとの合併」か「自主独立」か選択させ、正面からヒトラーの要求を拒絶することであった。ドルフス前首相暗殺以来のドイツ側による様々な圧力に国民の反感が高まっており、実施されれば「自主独立」の選択が確実であった。更にかつてドルフスが非合法化したオーストリア社会民主党とも極秘に交渉し、国民投票への協力と引き換えに非合法化の取消を約束した。
これを知ったヒトラーは激怒して国民投票の中止とアルトゥル・ザイス=インクヴァルトへの首相職移譲を要求する一方、3月10日にオーストリア制圧作戦『オットー』を発動した。3月12日にドイツ国防軍を越境させ、実力でオーストリア国土の占領させる計画であった。この情報はオーストリアに漏れ、政府に衝撃を与えた。3月10日午後4時、シュシュニックは国民投票の中止と総辞職に追い込まれ、「屈服」の意をラジオで放送した。シュシュニックはザイス=インクヴァルトを後継に推薦したが、ミクラスは承認を渋った。しかし、「屈服」放送に勢いづいた各地のオーストリア・ナチス党員は、ウィーン、リンツグラーツインスブルックなどの地方政府の施設にハーケンクロイツ旗を掲揚するなどした。この間ドイツはザイス=インクヴァルトに「派兵要請」を打電するように迫り、ザイス=インクヴァルトは午後9時45分に派兵要請を打電させた。12日になる少し前、ミクラスはついにザイス=インクヴァルトを首相に指名した。
3月12日午前8時、ドイツ軍の進駐が開始された。ドイツ軍は各地で熱狂的な歓迎を受け、そのため進軍速度が鈍ることもあった。首相となったザイス=インクヴァルトは、続いて名目上の国家元首であるミクラス大統領に対して、ドイツとの合併協定を締結するように迫った。ミクラスはこれを拒絶して辞職したため、ザイス=インクヴァルトは大統領の権限も代行することになった。ただし、ミクラスは戦後に自分は辞意を表明した事はなく、ザイス=インクヴァルトが一方的に宣言したものであり、彼を首相に任命してもいないと戦後に証言している。  (「wikipedia・アンシュルスより)]

オーストリア/国立オペラ座裏の戦争記念碑 | 東欧・中欧海外現地情報」、「中欧の旅:ウィーン3,ウィーンのユダヤ地区 – スカースデール村から」、「広場の石碑 – みみずのしゃっくり – Gooブログ

カメラ北方向が「戦争とファシズムへの戒めの記念碑」で、手前の手前の一組の花崗岩の記念碑は「暴力の門」と呼ばれています。

「戦争とファシズムへの戒めの記念碑」前の360citiesです。

カメラ北方向の像は空襲の犠牲者、レジスタンスに参加して落命した人たちに捧げられています、カメラ南方向が「暴力の門」です。「暴力の門」前に道路を清掃するユダヤ人の像があります。

カメラ初期設定方向右が空襲の犠牲者、レジスタンスに参加して落命した人たちに捧げられた像で、カメラ右方向に道路を清掃するユダヤ人の像と「戦争とファシズムへの戒めの記念碑」があります。