フライウンク

マーカーはフライウンクです。

フライウンク
[ショッテン教会が面している趣のある広場フライウンクの歴史は古い。ヴィンドボナ時代はこの地もまた、ローマ軍の駐屯地であった。
12世紀半ば、バーベンベルク家ハインリッヒニ世(在位:1156年 – 1177年)はドイツレーゲンスブルクからベネディクト修道士たちを呼び寄せ、当時はまだウィーンの城壁の外にあったフライウンクをベネディクト修道会に委ねたのであった。当時の慣習として修道士たちは修道院周辺地域における亡命者の庇護権も同時に付与された。ここからフライウンク(Freyung;“freien”はドイツ語で『自由にする、解放する』を意味する動詞で、Freyungはその名詞形)というショッテン教会の建つ広場の名前がつけられたのである。
中世の舗装道路跡 その後ハインリッヒニ世は現在のアム・ホフ広場に王宮を造営し、続くウィーンの拡張工事によってフライウンクもウィーン城壁の内側に取り込まれる。その際に教会の西側にウィーンの内と外を繋ぐショッテン門 (Schottentor) が作られ、フライウンクは以後ウィーン市内の重要な広場の一つとして栄えていく。だが当時フライウンクとアム・ホフ広場は現在のシュトラウフ小路 (Strauchgasse) からティーファー・グラーベン (Tiefer Graben) を走るドナウ運河によって分断されていたため、一本の架け橋でこの2つの広場は繋がっていた。(この運河は1456年までここに流れていたそうである。)
また、フライウンクの地下駐車場建設の際にハーラッハ宮キンスキー宮の間にローマ時代の泉の跡と中世後期の路面舗装が見つかった。発掘品は美術史博物館に収蔵されたが、路面舗装は印をつけられそのまま地面に残されている。
この広場は1683年のトルコ軍侵攻により、大きく破壊されてしまった。そのため現在のフライウンク近辺には18世紀以降に建てられた建物ばかりが立っている。このあたりで一番古い建物はへーレン小路 (Herrengasse) のポルツィア宮で、16世紀に建てられた。その後1702年に3番地に立つハーラッハ宮が、1716年に4番地のキンスキー宮が、続いて7番地の箪笥ハウスの名で親しまれているショッテン教会の修道分院が1774年に建てられた。さらに19世紀に入ると1846年に1番地のハーデック宮が、1852年にはモンテヌーヴォー宮、2番地に現在はフェルステル宮の名で親しまれている旧オーストリア=ハンガリー国立銀行が1860年に建てられた。そして一番最後には芸術フォーラムが1921年に完成した。  (「ウィーンの名所・フライウンク」より)]

カメラ位置はフライウンクで、カメラ東南東方向がオーストリアの泉で、カメラ北西方向にショッテン教会があります。