フォルクヴァンク美術館

マーカーはフォルクヴァンク美術館です。

フォルクヴァンク美術館
[フォルクヴァンク美術館(Museum Folkwang)は、ドイツノルトライン=ヴェストファーレン州エッセンにある美術館である。
沿革
1906年に創設された美術収集家カール・エルネスト・オストハウスの個人美術館と、エッセンの市立美術館が統合され、1922年にフォルクヴァンク美術館が出来上がった。「フォルフヴァンク」とは、北欧神話の愛の女神フレイヤが住んでいる宮殿の名前フォールクヴァングから取られている。
ナチス政権下では、同館所蔵の退廃芸術とされた作品が12000点も押収され、海外に売られるか焼却されてしまう。また第二次世界大戦の際に美術館の建物自体も爆撃を受け、一時閉館を余儀なくされる。戦後、作品の回収、購入等を経て1960年に再開。1970年代にはコレクションの規模は以前よりも大きなものとなった。1979年には写真部門も創設された。
2007年にはデイヴィッド・チッパーフィールドによる拡張部分が完成した。
コレクション
フィンセント・ファン・ゴッホ等のポスト印象派エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーパウラ・モーダーゾーン=ベッカー等の表現主義カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ等のドイツロマン主義の絵画、ジョアン・ミロ等のシュルレアリスムを所蔵している。その他19世紀美術や近代美術・彫刻、写真のコレクションも知られている。
フォルクヴァンク美術館・wikipedia-photo  (wikipedia・フォルクヴァンク美術館より)]

フォルクヴァンク美術館Museum Folkwang – Google Map 画像リンク

フォルクヴァンク美術館エントランス前のカメラです。

フィンセント・ファン・ゴッホ作『草むしりをする農婦』(素描・1885年7月)(commons.wikimedia)

[1883年12月5日、ファン・ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。
1885年3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。彼は弟テオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは彼であり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した。
1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ニューネン(1883年末-1885年)より)]

ファン・ゴッホ作『クラウの眺め』(素描・1888年)(commons.wikimedia)

ファン・ゴッホ作『埠頭、砂はしけから荷降ろしする男たち』(1888年8月)(wikipedia-photo)

[ファン・ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。
5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#アルル(1888年-1889年5月)より)]

ファン・ゴッホ作『アルマン・ルーランの肖像』(1888年11月-12月)(wikipedia-photo)

[1888年10月23日、ポール・ゴーギャンアルルに到着し、共同生活が始まった。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『アルルの女』)。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことを弟テオに伝えている。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」と弟テオに書いている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャンとの共同生活より)]

ファン・ゴッホ作『サイプレスのある風景』(1889)(commons.wikimedia)

ファン・ゴッホ作『麦刈る人のいるサン=ポール病院裏の麦畑』(1889年9月)(wikipedia-photo)

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ファン・ゴッホ作『サン=ポール病院の庭』(1889年11月)(wikipedia-photo)

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[1889年5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20キロ余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院(Monastère Saint-Paul-de-Mausole)療養所に入所した。ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。
1889年のクリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった。1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。1月31日に弟テオとヨーの間に息子(フィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈ったり、ポール・ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった。4月、ペロン院長はテオに、ファン・ゴッホが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。
一方、ファン・ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を博した。2月、この展覧会でファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやクロード・モネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#サン=レミ(1889年5月-1890年5月)より)]

ファン・ゴッホ作『雨』(素描・1890)(commons.wikimedia)