ソ連の戦争記念館

マーカーはソ連の戦争記念館です。

ソ連の戦争記念館
[ベルリンと言えば、東西冷戦の最前線だった都市。かの有名な「ベルリンの壁」で街が二分され、東ベルリンは社会主義国・東ドイツ(ドイツ民主共和国)の首都、西ベルリンは資本主義国・西ドイツ(ドイツ連邦共和国)の飛び地でした。厳密にいえば、東ドイツはソ連軍占領地区で、西ドイツはアメリカイギリスフランス軍の占領地区ということになっていました。
さてそのベルリンの中心部、東西ベルリンの境界に位置するブランデンブルク門の近くには、ソ連の戦勝記念碑が立っている。第二次世界大戦の末期、ベルリンへ突入したのはソ連軍で、突入戦の戦没兵士2500人を祀ったもの。廃墟となったヒットラー総統官邸の資材が使われ、碑の両脇にはベルリンへ一番乗りを果たしたソ連の戦車が鎮座していたが、記念碑の場所は東ベルリンではなく、西ベルリンのイギリス軍占領地区だった。西ベルリンにあってここだけはソ連軍の管轄区域で、カマトンカチの赤旗(ソ連国旗)を先頭に、ブランデンブルグ門から記念碑まで警備を交替するソ連兵が毎日西ベルリンをパレードしていた。
国会議事堂を占領したソ連軍。で、ソ連国旗を持っている兵士は飛び地出身の人。
いわば東側(東ドイツ)の中にある西側の飛び地(西ベルリン)の中の東側の飛び地みたいな存在だったわけだが、なぜまたソ連軍はわざわざ西ベルリンに記念碑を建てたかと言うと、近くにあった国会議事堂がベルリン突入時のソ連軍の攻略目標だったから。記念碑が建設された1945年秋は、まだ東西冷戦は本格化しておらず、ドイツも東西に分裂していなくて、ベルリン市は米英仏ソの4カ国の共同占領の下で運営されていた。イギリス軍も「まぁ、ベルリンを占領したのはソ連軍の働きだから」と、記念碑の建設に文句を言わなかったらしい。
その後、東西対立が激化すると、西ベルリンに鎮座するソ連の戦車と毎日行進して来るソ連兵は、ソ連による西ベルリン、しいては西側社会への威圧の象徴のように見られ、米英仏にとってはいまいましい存在となったが、まさか記念碑の撤去を求めるわけにもいかず、対抗してアメリカ軍も東ベルリンで軍事パレードを実施したりした。1961年に東ドイツがベルリンの壁を作って西ベルリンを包囲すると、イギリス軍も「報復措置」として記念碑の周りに壁を作ってしまったとか。
しかし世界はどうなるかわからないもので、1989年にベルリンの壁が突如崩壊し、1990年に東西ドイツが統一したが、翌1991年にはソ連が解体してしまった。その記念碑はロシア軍が警備を引き継いでいたが、1994年8月に東ベルリンからロシア軍が撤退すると、記念碑はただの記念碑になり、一般市民が誰でも立ち入れる場所となった。ナチスドイツの崩壊を象徴していたはずの記念碑は、今は亡きソ連を象徴するモニュメントと化し、新たな観光スポットになってしまいましたとさ。  (「飛び地もどき?の地区」より)]

ソビエト戦争記念碑 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向がソ連の戦争記念館です。

カメラ北北西方向がソ連の戦争記念館です。

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