マーカーはチェックポイント・チャーリーです。
チェックポイント・チャーリー(英語:Checkpoint Charlie、ドイツ語:Checkpoint Charlie)
[チェックポイント・チャーリー (Checkpoint Charlie) は、第二次世界大戦後の冷戦期においてドイツ・ベルリンが東西に分断されていた時代に、同市内の東西境界線上に置かれていた国境検問所。1945年から1990年まで存在し、ベルリンの壁と並ぶ東西分断の象徴として、また一部の東ドイツ市民にとっては自由への窓口として、冷戦のシンボルのように捉えられていた。ジョン・ル・カレなどのスパイ小説や映画にもたびたび登場している。
「チェックポイント・チャーリー」という名称は西側諸国による呼称で、NATOフォネティックコードの「C」に当てられる Charlie から取られたものである。すなわち、「チャーリー」は特定の人名などに由来するものではなく、日本語でいうならば単に「検問所C」のような意味合いに過ぎない。
一方、西側に属さないソ連側では、この検問所を単に「フリードリヒ通り検問所」 (КПП Фридрихштрассе) と称していた。
ベルリン市内のほぼ中央部にあるフリードリヒシュタットの街区、フリードリヒ通りとツィマー通り (Zimmerstraße) の交差点に設置されていた。第二次大戦後のベルリンはアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ソビエト連邦の4か国によって分割統治されており、チェックポイント・チャーリーはアメリカ統治地区とソ連統治地区との境界上にあったが、イギリス統治地区からも至近の場所に位置していた。
東西分断期のベルリンには数多くの検問所が設置されており、そのうちの一部が西ベルリン・西ドイツ市民が通行するためのものであった。チェックポイント・チャーリーは外国人および外交官、西側諸国軍の関係者が徒歩または自動車で通行するための検問所とされており、西側諸国軍関係者は他の検問所を通行することは認められていなかった。また、東西ベルリン間を移動する外国人が通行可能な検問所は、ここ以外では近隣のフリードリヒシュトラーセ駅のみであり、フリードリヒシュトラーセ駅はすべての国籍の人が手続きできたため、手続きを待つ人々で混雑することもあった。
検問所が運用されていた期間中、東側では壁や監視塔、ジグザグに張り巡らせたフェンス、さらに通行する車やその乗員をチェックするためのブースを設置するなど、設備の拡張が絶えずなされていた。しかしその一方、アメリカ側では恒久的な建造物は作られることはなく、木造の小屋が設置されたのみであった。この小屋は、1980年代になってさらに大きな金属製のものに置き換えられ、さらにベルリンの壁崩壊後に検問所自体が廃止され撤去されたが、東西ドイツ統一後は木造の小屋が再建され、ベルリンの観光名所のひとつになっている。
1961年、西側への人口流出に危機感を抱いた東ドイツ政府によってベルリンの壁が建設された。しかし、それでも西側へ脱出する手段は数多く残されていた。チェックポイント・チャーリーは当初、ゲート1つで東西を隔てているだけであり、車で突入しゲートを破壊して強行突破したり、車高の低いオープンカーでゲートの下をくぐり抜けたりする東ドイツ市民が現れた。これに対し、当局はゲートの遮断棒を強化したり遮る位置を下げたりして対応した。
1962年8月17日、東ドイツ人のペーター・フェヒター(ペーター・フェヒターの記念碑)という18歳の青年が、チェックポイント・チャーリー近くの壁をよじ登って西側へ脱走しようとしたところ、これを発見した東ドイツの警備兵に銃撃された。背中に弾を受けて壁から落ちた彼は、有刺鉄線のフェンスに絡まるように倒れこみ、西側のジャーナリストを含む数百人の目撃者が見守る中、そのまま出血死した。彼の身体は境界線から数メートル東側にあったため、アメリカ軍の兵士は救助することができず、また東ドイツ警備兵も西側の兵士を刺激することを恐れて、フェヒター青年に近寄ることを躊躇した。結局、フェヒター青年の遺体は1時間以上経ってから東ドイツ兵によって回収された。
これを受けて、東側の行為と西側の無為に対する抗議行動が検問所のアメリカ側で起こった。さらに数日後、イギリス地区ティーアガルテンにあるソ連の戦死者墓地へ向かうソ連のバスに向かって群衆が投石する事件が起こり、ソ連軍は装甲兵員輸送車でバスを護衛せざるを得なかった。この後、ソ連軍はティーアガルテンに最も近いザントクルーク橋検問所のみの通行しか認められなくなり、イギリス地区への装甲兵員輸送車の乗り入れも禁止された。
この禁令を徹底するため、西側の部隊は9月初めのある日真夜中、武器弾薬や軍用車両を展開した。もっとも、これらの弾薬は結局使用されることはなかった。その後、1973年に東ドイツの国境警備兵が自動小銃を発砲し、チェックポイント・チャーリーに弾痕を残すということがあったが、アメリカ兵に死傷者は出なかった。
1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、市内の国境検問は事実上廃止された。その後もしばらくの間、チェックポイント・チャーリーは公式には外国人・外交官用の検問所という役割を担ったままであったが、1990年10月1日のドイツ再統一に先立つ6月22日に検問小屋が撤去された。この小屋は、市内ツェーレンドルフ地区にある連合国博物館 (Allied Museum・https://goo.gl/maps/LJDSxFEV1KA2、Google Maps) に展示されている。
「チェックポイント・チャーリー跡(2003年6月)。旧アメリカ地区より望む。復元された検問所の屋根には片面にソ連軍兵士の写真、反対側には米兵の写真が掲げられている。」・wikipedia-photo、「チェックポイント・チャーリーで向かい合うソ連軍と米軍の戦車、1961年10月27日」・wikipedia-photo、「アメリカ地区から見たチェックポイント・チャーリー、1977年。」・wikipedia-photo、「東側から見たチェックポイント・チャーリー、1986年6月。」・wikipedia-photo、「西ドイツへの往来制限が大幅に緩和されたのを受け、チェックポイント・チャーリーを東ドイツの大衆車トラバントに乗って通過する東ドイツ市民、1989年。」・wikipedia-photo (wikipedia・チェックポイント・チャーリーあり)]
「チェックポイント・チャーリー – Google Map 画像リンク」
カメラ南方向がチェックポイント・チャーリーです。
チェックポイント・チャーリー鳥瞰の360citiesです。
カメラ左方向が旧東ベルリンで、カメラ右方向が旧西ベルリンになります。