トンネル57

マーカーはトンネル57です。

トンネル57(Tunnel 57)
[1964年10月に、トンネルを掘って57人が西へ逃れた。計画したのは西側の冒険家で工科大学の学生も含めて組織的に行われ、西からトンネルを掘り、東側では西の連絡員が手引きした大掛かりな脱出作戦であった。場所はベルナウ通りを挟んで西側の1軒のパン屋の地下室から3m下へ掘り、そこから145m進んで、ベルナウ通りの向こう側のある家の裏庭の今にも倒壊しそうな屋外トイレまで半年をかけて掘った。穴の縦はおおよそ70cmで、掘り出した土は西側のパン屋の部屋に積み上げていった。この作戦を「トーキョー作戦」と彼らの間では呼ばれた。この10月に第18回東京オリンピックが開催されることによったものである。1人は入口の見張りとして東側に合法的に入り東側の国境警備隊の動きを見張った。そして西側の連絡員が暗号電報を使って連絡を取り合い、越境を希望する者を探し、トンネルの入口付近の家に案内し、西側から双眼鏡で監視して尾行されていないことを確認してから無線で東側の家の中にいる者に連絡してドアを開けて家の中に入れた(この時の合言葉はトーキョーであった)。そして裏庭から屋外トイレに行き、便器を取り外して下のトンネルに入り、およそ11分から30分かけて西側のパン屋の地下室に達した。時間がかかったのは途中で水が深くなって息をするのが難しい地点があったことと、トンネルに入った人々は一様に恐ろしさに震え、泣き出す女性もいて、無遊状態になって足取りが覚束ない人もいたからであった。それだけに脱出した後は激しい感情の波が押し寄せたとされている。こうして10月3日(土)に28人、4日(日)に29人が西ベルリンに逃れた。内訳は男性23人、女性31人、子ども3人であった。しかし10月5日(月)朝に国家保安省(シュタージ)に発見されて、裏庭で撃ち合いとなり東側兵士が1人撃たれて死亡したが、西側の4人はトンネル入口のトイレから下へ通じ、そのまま西へ戻ることが出来た。この直後に東ドイツ政府は東西間の境界付近の保安活動は国家保安省(シュタージ)のみで行うことを決めた。この作戦行動は後に助かった57人から「トンネル57」として最も有名なトンネル脱出劇となった。東京オリンピックの開会式は5日後の10月10日(土)である。
トンネル57のルートパネル・wikipedia-photo  (wikipedia・ベルリンの壁より)]

国境線のアパート跡手前の飛び石のように配置されているプレート列二本のルートの手前がトンネル57です。

カメラ東南東方向・芝生に飛び石のように配置されているプレート列はStasi-Tunnelと明記されているトンネル跡です。