マーカーは国境線のアパート跡です。
国境線のアパート跡(Grenzhaus Bernauer Straße 10a)
[1961年8月13日のベルリンの壁建設と同時に、ベルナウアー通りはベルリン分断の象徴的な場所になりました。この通りでは、住宅アパートが東ベルリンに属する国境線となりながら、建物の前の歩道は西ベルリンだったため、町の遮断が最も衝撃的な形で表れている地区として知られています。家族、友だち、近所の住民などが、ある日突然、強制的に切り離されてしまったのです。今でも忘れられない光景は、アパートから逃げ出す劇的な逃亡です。西ベルリン側にある全ての窓が壁で塞がれ、約2000人の住民が強制退去を受けるまで、多くの家族が自由を求めて窓から飛び降りました。 (「ベルリンの壁記念館は – Gedenkstätte Berliner Mauer」より)]
[ベルナウ通りでは道路と建物の間に境界線が引かれていたが、壁の建設が始まった時に事情をいち早く察知して逃亡した者以外は壁の建設部隊が到着するまで建物に住み続けていた。壁建設から1週間後の1961年8月19日、当局が通り一帯の住民およそ2000人に退去命令を出し、境界線(通りに面したドアと窓の目の前)にレンガを積み始めた。建物の2階に住んでいたルドルフ・ウルバン(47歳)は窓からロープを伝って降りようとしたが、その最中に警察が自室に入ってきたことで慌ててロープから手を放し、3mの高さから落下し、その後病院で死亡した。これがベルリンの壁での最初の犠牲者とされている。
同じくベルナウ通りの住人フリーダ・シュルツ(77歳)は、窓の下の地面消防隊が敷いた毛布に飛び降りようとしたが、部屋に踏み込んできた警官に両手を掴まれた。外で受け止めようと待ち構えていた西側の市民が彼女の足首を掴んで二人がかりで引っ張り返し、身柄を警官からもぎ離した。この場面は丁度この現場を通りがかったアメリカ特使団のヘムシング広報官が目撃して「非常に感動的な光景だった」と後に述べ、またこの場面を撮影していたフィルムはニュース映画に使われて有名な話となった。最終的にベルナウ通り沿いの建物は廃屋となり、やがて爆破され、更地となった。東ドイツ当局は9月半ばまでに東ベルリン市民2665人を政治犯罪で連行した。この政治犯の連行は、別に6000人以上が逮捕されその内3100人が刑務所に数年入れられたとする説がある。 (wikipedia・ベルリンの壁#東から西への亡命より)]
「グレンツハウス・ベルナウアー・シュトラーセ 10a – Google Map 画像リンク」
カメラは国境線のアパート跡です。