追悼記念の窓

マーカーは追悼記念の窓です。

ベルリンの壁の痕跡

追悼記念の窓
[ベルリンの壁で命を落とした人々を偲ぶ個々の追悼場所。
贖罪会の発案で始められ、ベルリンの壁財団が協力して2005年8月13日から続けている礼拝式は、火曜日から金曜日まで毎日(12:00~12:15時)贖罪礼拝堂(Kapelle der Versöhnung / Bernauer Straße 4)で行われています。礼拝式ごとに、壁で命を落とした一人の運命の記録を主題とし、私たちが決して忘れることがないように祈っています。多くの人たちに対して記載されている名前ですが、それぞれの名前は一回限りの人生を送った一人の人間の名前です。  (「ベルリンの壁記念館は – Gedenkstätte Berliner Mauer」より)]

ベルリンの壁の死者
[1962年8月17日にペーター・フェヒター(18歳)がチェックポイント・チャーリーのすぐ近くで越境しようとして撃たれた。一緒に行動した友人は壁を飛び越えたが、彼は撃たれて壁の東側に落ちた。その時はまだ彼は虫の息であったが生きていた。西側からは警官やアメリカ兵や報道陣が押し掛けたが、壁の向こう側に横たわった彼を救い出すことは出来ず、西側からは壁の上の鉄条網から救急箱を投げ入れるのが精一杯であった。そして東側は西側との衝突を恐れて監視所から動かず、その狭間で彼は断末魔の末、息絶えた。撃たれてから45分が経過していた。この一部始終を目撃した人は多く、西ベルリンでは激しい抗議行動が起こった。彼はベルリンの壁の最も有名な犠牲者となった。37年後の1999年にベルリン市はこの場所にペーター・フェヒターの記念碑を除幕している。
エドガー・ヴォルフルムは著書『ベルリンの壁』で「今日までベルリンの壁における犠牲者の正確な人数については確実な情報がない。」と述べている。しかし「ベルリンの壁の傍で亡くなった者は122人から200人」として「壁倒壊までに東ドイツから逃れようとして(ベルリン以外を含めて)死んだ人は1200人以上に上る」と推測している。
クリストファー・ヒルトンは著書「ベルリンの壁の物語」で、氏名が明確な死亡者について、その越境の行動と死亡に至る状況について克明に記して、氏名不詳の者も含めて165人の被害者の状況を述べているが、その彼も「壁の犠牲者に関しての決定的な情報は得られないかもしれない。」と述べている。彼は1991年にドイツで発行された「Opfer der Mauer(壁の犠牲者)」から多くの情報を得たとしているが、しかしこの文書は東ドイツの事件に関する機密扱いであった公式報告書を用いて調査されたものであるが完全ではないとしている。ある文書では172名の死亡者の一覧があったが、ヒルトンは「全てが亡命を目指していたとは言い難い」として「28年間に亡命を試みて死亡した者の一部は西側に報告されず東側にも記録に残っていない可能性がある」また「誰にも知られずに溺死した者がいた可能性がある」「越境しようとして泳いだが誰にも気付かれず遺体となったが発見もされなかったことが考えられる」と述べている。そして「私は全員の氏名を余さず記し、それぞれに人間らしい逸話を盛り込みたかったが、日付と簡単な説明だけを記すだけで精一杯であった。彼らの多くは無縁仏として埋葬あるいは火葬された」と語った。
1990年から2005年にかけてベルリンの壁で越境者を射殺した狙撃兵の裁判の訴訟文書によって解明が進んだとされて、「死亡者数は合計192名」であったり、「少なくとも136名」、「200人以上」、「射殺されたは238名」、「500人以上の人々が厳重に監視された境界で逃亡を試みて命を落とした」、「壁を越えようとして射殺された人は700人を超えると言われている」、「東西ドイツ及びベルリンの境界で命を落とした者は全体で943人にのぼる」などの諸説があり、1961年から63年までの壁建設の初期の期間で把握していない部分があるとしている。
1989年2月6日、クリス・ギュフロイ(20歳)の射殺を最後に犠牲者は出なくなった。ただしクリストファー・ヒルトンは、この後の3月3日に気球に乗って西へ飛んだヴィンフリート・フロイデンベルク(33歳)が西で落下して死亡したこと、4月16日に18歳前後と思われる氏名不詳の男性が溺死したことも追記している。  (wikipedia・ベルリンの壁より)]

カメラ南南東方向が追悼記念の窓です。