ハウス・デア・クンスト

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ハウス・デア・クンスト
[ハウス・デア・クンスト(独:Haus der Kunst、「芸術の家」の意)はドイツミュンヘン市プリンツレーゲンテンシュトラーセの英国式庭園南端にある美術館・展覧会会場。1937年の開館から1945年のドイツ敗戦までの間は、ハウス・デア・ドイチェン・クンスト(独:Haus der Deutschen Kunst、ドイツ芸術の家)と呼ばれ、所有コレクションを一切持たない純粋な展示館であった。当時の館長はベルギー人でキュレーターのクリス・デルコン。建物をデザインしたのは建築家のパウル・ルートヴィヒ・トロースト(Paul Ludwig Troost)と、同じく建築家で彼の妻ゲルディ・トロースト(Gerdy Troost)で、ミュンヘン建築事務所建築主任のレオンハルト・ガル(Leonhard Gall)の協力を得て落成に至った。日本語における呼称には揺れがあり、ドイツ語の発音を仮名表記した本記事表題以外に、和訳である「芸術の家」も用いられるほか、原語表記のまま記したり英訳であるHaus of Artが使われることもある。
ミュンヘンの旧植物園内には、マクシミリアン2世_(バイエルン王)の命による有名な水晶宮があり、美術展会場として用いられていたが、1931年に火災にあって焼け落ちてしまった。これに代わる建物を建設する構想は早くも1931年の内にまとめられ、ドイツ人の建築家アドルフ・アーベル(Adolf Abel)に設計が委任された。1933年春、この計画による工事が始まるやいなや、1月に政権を取って全権委任法を成立させていたナチス党班首アドルフ・ヒトラーがこれに待ったをかけ、もともと水晶宮があった現行の用地ではなく新用地を模索し、トローストによる新計画を実行するように命じた。こうして、トローストのデザインに基づく国家社会主義政権はじめての象徴的建築が、政府の強引な介入によって実現した。ヒトラー列席のもと、新しい「ドイツ芸術の家」定礎式典が1933年10月15日に行われた。ヒトラーの望んだ、石造りの古典主義的な外観を呈していたが、建築構造としては近代的な鉄筋コンクリートによるものであった。以下18名の設立援助者の名が開館記念銘板に記されている。 1949年以来毎年、ミュンヘンにおける大きな美術展がハウス・デア・クンストで開催されている。2007年には、173人の芸術家の200点以上の作品が展示された。ピナコテーク・デア・モデルネが開館するまでは建物の西翼が国立現代美術ギャラリーとして使われ、東翼は特別展会場として用いられた。2003年から2004年にかけて、20世紀の定礎から70年にちなんで、オリジナルの内装様式に復古改装された。
「2009年のハウス・デア・クンスト」・wikipedia-photo、「1937年、ハウス・デア・ドイチェン・クンスト開館記念式典の様子」・wikipedia-photo  (wikipedia・ハウス・デア・クンストより)]

カメラ東北東方向がハウス・デア・クンストです。

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