クラクフ歴史博物館(旧オスカー・シンドラー琺瑯工場)

マーカーはクラクフ歴史博物館(旧オスカー・シンドラー琺瑯工場)です。

クラクフ歴史博物館(旧オスカー・シンドラー琺瑯工場)
[スティーヴン・スピルバーグ監督の名作映画 『シンドラーのリスト 』は、ここクラクフが舞台となっています。クラクフ・ポドグジェ地区には、そのシンドラーの工場が、今日も当時のままの姿で残されており、映画のシーンにも登場した入り口の階段やシンドラーの執務室(画像リンク)などを見学することができます。入り口の門をくぐってすぐのドアから建物の中にはいると、映画のシーンにも登場した階段(画像リンク)が登場します。階段の踊り場では、当時の写真を使った記念フィルムが上演されています。  (「映画 『シンドラーのリストの世界』 クラクフ・ゲットー、シンドラーの工場と …」より)]

[シンドラーの工場は、クラクフ市内のLipowa4番地にあります。Lipowa4番地の周辺は、現在でもドイツ系の企業や工場がたくさん立ち並ぶ一帯です。その中にたたずむシンドラーの工場。この工場内は、現在では博物館になっているのですが…ここ、いわゆる普通の「ホロコーストミュージアム」ではありません。中に入ると…「クラクフ、1939年」と書かれたボードと共に記念撮影できる場所があり…まさに1939年から終戦までのクラクフ市民を、ユダヤ系・ポーランド系・ドイツ系それぞれの立場で体験できるようになっています。驚いたのは、ポーランド側だけでなく、ドイツ側の史料がドイツ本国の博物館以上に豊富なことです。中には、現在のドイツでは例え博物館であっても公衆の面前で展示できないようなあんなものやこんなものまで…こうしたものを、被害者側が、このような中立の立場から「貴重な史料」として大切に保管し、「負の記憶」として人々の目に触れる形で展示ていることには、本当に頭が下がる思いがします。壁には、当時クラクフ市民の元に矢継ぎ早に届いた「ドイツ占領軍」からの通達が所狭しと張られています。当時のままに、全てドイツ語です。「ユダヤ人は公園に出入りしてはならない」に始まって、「ユダヤ人は自転車に乗ってはならない」「ユダヤ人は公共交通機関に乗ってはならない」「ユダヤ人は日没後に外出してはならない」…そしてついに、「ユダヤ人は全員ゲットーに強制移住すること」という通達が届きます。しかしそれは、アウシュビッツへのの序章に過ぎないのでした。  (「ドイツ便り イースター休暇ポーランド旅行~シンドラーの工場編」より)]

[シンドラーは決して聖人君子ではなく、むしろ享楽的で欠陥の多い人物であったという。ユダヤ人を雇用したのも、もともとは労働力の安さにひかれただけだったと言われているが、彼がユダヤ人工員に対して一度たりとも非道な行いをしなかったこと、工場の閉鎖後、強制収容所に移送された工員たちを救い出そうと努力したことは事実である。工場の壁には「一つの命を救うものは世界を救う」というタルムードの言葉が刻まれている。  (「クラクフ(4)」より)]

カメラ北北西方向がクラクフ歴史博物館(旧オスカー・シンドラー琺瑯工場)です。

クラクフ歴史博物館(旧オスカー・シンドラー琺瑯工場)展示室のカメラです。

オスカー・シンドラー
[オスカー・シンドラー(Oskar Schindler、1908年4月28日 – 1974年10月9日)は、メーレン(当時オーストリア領、現チェコ領)生まれのズデーテンドイツ人の実業家。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救った。
スカー・シンドラーは、
1939年2月10日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に志願して入党。彼は、ドイツのポーランド侵攻に合わせ、戦争での一儲けを狙い、ポーランドクラクフにやってきた。
1939年10月、シンドラーは、没収前はユダヤ人の所有になっていた、落ちぶれた琺瑯(ホーロー)容器工場を買い取る。彼は、ユダヤ系ポーランド人会計士イツァーク・シュテルンの助言を受けながら、闇商売で資産を拡大していく。クラクフ近くにあるザプロヴィツ(Zablowic)の小さな工場は、ドイツ軍の厨房用品を製造して急激な成長を遂げた。工場はわずか3カ月で250人のポーランド人労働者を使うようになり、その中には7人のユダヤ人労働者もいた。彼の工場は1942年末までに、巨大な琺瑯容器工場にして、軍需工場に成長していった。 45,000 m²の敷地に800人近い労働者がここで働いたのである。その中にはクラクフ・ゲットーのユダヤ人370人もいた。
シンドラーのナチ政権への抵抗は、イデオロギー的な理由からではない。まずもって楽天的な工場主は、無力なユダヤ人住民たちに対する扱い方に異を唱えたのである。彼の経済的な関心は、出来るだけ多くのユダヤ人を救済したいという願望の前に次第に後退していった。最後には、全財産をこの目的のために投げ出すだけでなく、自分の命まで賭けようとしたのである。
シンドラーのユダヤ人救済において大きな力となったのは、彼の工場が“軍需工場”ということでポーランド占領のドイツ軍司令部からも特別の格付けを承認されていたことである。これにより、彼は大きな利益のある契約を締結出来ただけでなく、親衛隊の監督下にあったユダヤ人労働者を要求できたのである。 彼は、これらの労働者が工場の生産ラインに不可欠だと主張することで、雇用者が絶滅収容所へ移送される危険がせまった時にも特例措置を働きかけることが出来たのである。シンドラーはその際にもウソをついたり記録を偽ったりということはせず、ただ子供や大学生を熟練の金属工と称しただけにとどまった。シンドラーは、かの有名な“リスト”を彼の秘書ミミ・ラインハルト(Mimi Reinhardt)に口述筆記させ、彼女もまた2,3人の名前をそれに書き足した。
シンドラーは、規則違反やユダヤ人に対する優遇の嫌疑をかけられてたびたびゲシュタポから事情聴取を受けた。こうした事実をシンドラー自身も隠そうとはしなかった。1943年、シンドラーは、ユダヤ人組織の招待でブダペストに旅行し、そこでハンガリーのユダヤ人たちと会合を持った。彼は、ポーランドのユダヤ人たちの絶望的な状況を包み隠さず語り、救出の可能性について議論を交わした。
1943年3月、クラクフのゲットーは解体され、お気に入りのユダヤ人たちは、クラクフ郊外のプワシュフ強制収容所へ移送された。 シンドラーは、残忍な強制収容所所長の親衛隊大尉アーモン・ゲートが、彼の飲み仲間でもあったことから、彼の工場にユダヤ人労働者のための小屋を建てさせてくれるようにと説得した。この秘密交渉で、彼はそのユダヤ人労働者に比較的快適な生活条件を提供し、貧弱な栄養状態を補ってやることが出来るようになった。このための食糧は、シンドラーがすべて闇の市場で調達してきた。収容所の親衛隊の警備兵たちは、工場の敷地内への立ち入りは禁止されたのである。
1944年末、プワシュフ(Płaszów) は、赤軍の侵攻により、すべての収容施設の解体を余儀なくされ、ここにいた20,000人以上のユダヤ人が絶滅収容所に移送された。シンドラーは、ドイツ軍の司令官から、彼とその妻がズデーテン地方のブリュンリッツ(現・チェコのブルニェネツ Brněnec)で新たに手に入れた工場で「軍需物資の生産」を継続し、そのための労働者を連れていくという許可を得た。その労働力には、プワシュフの収容所からかなりの大人数が選ばれ、総数で800人にもなった。そのうち700人がユダヤ人、300人が女性だった。これらの人々のブリュンリッツ労働収容所への移送は、1944年10月15日に行われた。これはグロース・ローゼン(現・ポーランドのロゴジニーツァ Rogoźnica)の強制収容所を経由しての移動であった。この強制収容所 KZ Groß-Rosen の副次的な収容所が労働収容所ブリュンリッツだったのである。 輸送の列車はアウシュヴィッツを通っていた。その時、彼女たちが別の収容所に移される前に、すべての囚人は男であれ女であれすべて検疫所に行くようにという親衛隊の指令書が届いた。同様に、秘密の場所に隠されていた身体検査施設へという指令もその中にあった。これらすべての指令が女性の囚人たちに実施されている間、グロース・ローゼンは、シンドラーの女性労働者たちを管理するのにはまだ充分な人員も施設も準備されていなかった。そのため、女性たちはおよそ60km離れた強制収容所アウシュヴィッツに行くというはめになったのである。
シンドラーは、グロース・ローゼンの収容所から人々を助け出しに駆けつけ、彼らを助け出すことに成功した。シンドラーが、ユダヤ人1人当たり1日につきゲシュタポに7マルク支払うことを約束し、彼の秘書がアウシュヴィッツで女性たちを更に移送する交渉を行ったのである。これは、絶滅収容所の運用期間中において最も多くの集団が出て行くことを許されたケースである。
オスカーとエミーリエのシンドラー夫妻は、アウシュヴィッツの収容施設から加えて120人のユダヤ人を救出した。この人たちは、親衛隊のドイツ石炭鉱業という鉱山で働かされていた人々である。1945年1月、この人々はロシア軍の侵攻により、強制疎開を余儀なくされ、2台の鍵をかけられた家畜貨車で西方に荷送された。凍りつくような寒さの中、食事も水も与えられず、7日間かけて親衛隊は、この貨車をシンドラーの工場の門まで運んだのである。エミーリエ・シンドラーは、親衛隊の輸送部隊を阻止して、貨物車だけを工場の中に引き入れた。オスカー・シンドラーは、貨物車の乗客が工場にとって急ぎ必要なのだと説いて聞かせた。貨物車のドアが開けられると、13人の凍死者が発見された。生き延びた107人は、ただちに治療を必要とする状態で、懸命な介護でなんとか一命を取り留めた。親衛隊は誰一人シンドラーの工場には立ち入りを許されなかった。そればかりか凍死したユダヤ人を彼らが焼却処分することもシンドラーは許さなかった。彼は土地を購入して、ユダヤ教のしきたりに則って彼らをそこに埋葬した。
プワシュフでは「彼の」労働者たちの誰一人としてそれ以来、収容所エマーリア(Emalia)では打たれることはなかったし、不自然な死を遂げたものもなく、また絶滅収容所に送られたものもなかった。戦争の終盤、シンドラーは、ドイツに移ったが、彼はその時1ペニヒすら持っていなかった。  (wikipedia・オスカー・シンドラーより)]

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