マテイキ広場(Plac Matejki)

マーカーはヴワティスワフ2世の像です。

マテイキ広場(Plac Matejki)
[シュトバ通りを東に少し行くと右手にマテイキ広場があり、ポーランド王ヴワティスワフ2世の像が立ち、花が捧げられています。  (「ポーランド鉄道の旅クラクフのトラムと旧市街」より)]

ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)
[ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(Władysław II Jagiełło, 1351年 – 1434年6月1日)は、ポーランド王国ヤギェウォ朝の創始者(ポーランド王在位:1386年 – 1434年、リトアニア大公在位:1377年 – 1381年、1382年 – 1401年)。リトアニア大公ゲディミナスの孫に当たる。父はリトアニア大公アルギルダス。ポーランド王に即位する以前の名はヨガイラ(Jogaila)。
現在ポーランドで発行されている100ズウォティ紙幣の、表面側の肖像に採用されている。  (wikipedia・ヴワディスワフ2世_(ポーランド王)より)]

カメラ位置はマテイキ広場(Plac Matejki)で、カメラ東北東方向がヴワティスワフ2世の像です。

ヴワディスワフ2世 (ポーランド王)の生涯
[1377年、父の死後にリトアニア大公を継承していたが、1381年に叔父ケーストゥティスに大公位を奪われて追放される。しかし翌1382年、ドイツ騎士団の支援のもとにケーストゥティスを捕らえて殺害し、大公位を奪回した。
その頃、ポーランドでは1370年に時のポーランド国王であったカジミェシュ3世が嗣子無くして死去したため、ピャスト朝は断絶した。その後、王位はカジミェシュ3世の甥に当たるハンガリー王ラヨシュ1世(ルドヴィク1世)が継いだ。ラヨシュ1世の死後、ポーランド王位の方は末娘ヤドヴィガが継いでいたが、ヨガイラは1384年にヤドヴィガと結婚、1385年にはキリスト教に改宗した。
その後、ドイツ騎士団と敵対するポーランド貴族の思惑や、ラヨシュ1世の重臣だったオポーレ公ヴワディスワフ・オポルチクとの対立など紆余曲折があったが、1386年に正式にポーランド王ヴワディスワフ2世として即位し、ヤギェウォ朝を開いた。こうしてポーランド・リトアニア連合が成立する。その後は王朝の基盤を固めるために積極的に内政に専念し、リトアニアは弟のスキルガイラを摂政としてその統治を任せた。1399年、女王ヤドヴィガが死去したためにその地位が一時危ぶまれたが、その後も王位を保っている。
1401年、リトアニア大公位を従弟でケーストゥティスの息子ヴィータウタスに譲ってリトアニアの統治を任せた。1410年、ヴィータウタスとともにドイツ騎士団をグルンヴァルトの戦いで破った。ヴィータウタスとは1413年にはボロドレ協定を結んでさらに関係を強化する一方、黒海方面に領土を拡大するなど、軍事的に大きな成功を収め、王朝の基盤を確固たるものとした。
1430年にヴィータウタスが死去した後、リトアニア大公位はヴワディスワフ2世とヴィータウタスそれぞれの弟に相次いで与えられるが、次第に実質的な同君連合国家となっていく。だが晩年、ヴワディスワフ2世はヴワディスワフ3世の王位継承を承認させる代償として、貴族層に多くの特権を与えてしまう。これが後に、ポーランド王国の大きな病巣ともなったのである。  (wikipedia・ヴワディスワフ2世_(ポーランド王)より)]

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