ヴァヴェル城

マーカーはヴァヴェル城王宮西側広場です。

ヴァヴェル城(Wawel Castle)
[ポーランドクラクフにあるゴシックヴァヴェル城は、1333年から1370年まで在位した、カジミェシュ3世の命令で造られ、中央の中庭を囲むように位置して複数の建造物で構成されていました。カジミェシュ3世は、政治的・経済的な弱者である農民を手厚く保護してその生活改善に努め、さらに西ヨーロッパで迫害されたユダヤ人を保護し、国外からの移民による植民も積極的に奨励するなどして、ポーランドは商業的にも大きく発展させました。1347年にはポーランド王国の基本法を制定し、1364年には首都クラクフに国内初となる大学・ヤギェウォ大学を設立させるなど、このカジミェシュ3世の時代にポーランドは大国に発展することとなったのです。しかし、1370年にカジミェシュ3世が適当な後継者を残さずに死去したため、ポーランドは混乱期に入ります。1384年10歳で即位した、ポーランド女王ヤドヴィガ(Jadwiga)は、結婚相手にリトアニア大公・ヨガイラ(Jogaila・後のポーランド王ヴワディスワフ2世)が決まり、1385年8月マウォポルスカの貴族たちとヨガイラの間でクレヴォ合同に関する条約が結ばれました。この条約では異教徒ヨガイラとリトアニア大公国がカトリック教会に入信するのを条件に、ヨガイラがヤドヴィガと結婚してポーランドの主権を獲得し、ポーランド・リトアニア連合王国を形成するという取り決めがされました。12歳のヤドヴィガは、洗礼を受けて新たにヴワディスワフ2世と名乗った38歳のヨガイラと結婚し、主権は夫に渡ったものの、ヤドヴィガは共同統治者の地位を保ちました。ヴァヴェル城は結婚により共同統治者となりヤギェウォ朝を創設した二人により再建されました。彼らの治世中に鶏の足(Kurza Stopka)と呼ばれる塔 とデンマークの塔が追加され、多くの聖職者、王室の店員や職人のための宿舎として使用するための建物も、彼らの治世中に丘の上に建設されました。
16世紀後半にヤギェウォ朝が断絶すると、ポーランドでは貴族らによって運営される身分制議会(セイム)の勢力が強まり、王権の弱体化が進み、16世紀より徐々に王国の中心はワルシャワへと移行していき、17世紀初頭には正式に都がクラクフからワルシャワへと遷されました。
第二次世界大戦に際してポーランドはナチス・ドイツ軍の占領を受けた。ポーランド総督に任命されたハンス・フランクはヴァヴェル城からポーランド総督府の統治にあたった。
ヴァヴェル城は現在国立博物館となっていて、王宮にはヨガイラ(Jogaila)とヤドヴィガ(Jadwiga)の戴冠式の儀式で使用された「Szczerbiec」と言う剣が、この時代の名残として展示されています。
Michał_Sędziwójの研究室があった「鶏の足の塔」・wikipedia-photoジグムント3世ヴァーサ・タワー(1595)と防御壁・wikipedia-photo、16世紀ルネサンス中庭・wikipedia-photo、「女王ボナ・スフォルツァの庭園(1536)」・wikipedia-photo、「聖フェリックスとAdauktのロタンダ、10/11th世紀」・wikipedia-photo、Dębnicki橋から見た城・wikipedia-photo、1617年のヴァヴェル城の木版画・wikipedia-photo
  (wikipedia・クラクフカジミェシュ3世ヤドヴィガ_(ポーランド女王)ヴワディスワフ2世_(ポーランド王)Wawel Castleより)]

カメラ南南西方向がヴァヴェル城へ通じる北の道です。

カメラ西方向がヴァヴェル城の上院タワー(Baszta Senatorska na Wawelu)で、カメラ北西方向に王宮中庭への出入り口があります。

カメラ位置は王宮中庭で、カメラ南方向に上院タワー(Baszta Senatorska na Wawelu)が見える。

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