ツィタデラ (Citadel)

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    ツィタデラ (Citadel)
    [ワルシャワ北部、にある要塞の跡。1830年の帝政ロシアの圧政に対する反乱「11月蜂起」を期に、ロシア皇帝ニコライ1世が完成させた。ワルシャワ市街のほうを向いた大砲は、最も多いときで550門もあったという。要塞の内部には政治犯を収容する監獄も造られた。現在10号棟の監獄跡は博物館として公開されている。監獄をそのまま保存したような重苦しさが漂う。  (「ツィタデラ/ワルシャワの評判 | 地球の歩き方[旅スケ]」より)]

    [1795年の第三次ポーランド分割プロイセン領に組み込まれた。1807年、プロイセンを征服したフランスナポレオンが、ティルジット条約によってワルシャワ公国を建てるが、ナポレオン失脚にともなうウィーン会議で、多くのワルシャワ公国の地域はポーランド王国(ポーランド立憲王国)とすることが確認され、ロシア皇帝アレクサンドル1世がポーランド国王の座につくことになった。
    独立を喪失してから、ワルシャワは幾度となくポーランド国家(ポーランド・リトアニア共和国)再興運動の中心地となった。1830年には、フランス7月革命の影響もあり、十一月蜂起(ワルシャワ蜂起)が起こったが、翌年までに無惨に鎮圧された。1815年に成立したポーランド王国(ポーランド立憲王国)では、自由主義的な憲法が規定されていたが、その多くはこれを機に形骸化された。1860年代前半にも民族運動が高揚し(一月蜂起)、一時はワルシャワにポーランド人の臨時政府も成立したが、再びロシアによって鎮圧された。当時のロシア皇帝は開明的なアレクサンドル2世であったが、この事件を受けてポーランドに対してはロシアへの同化政策を図るようになる。  (wikipdia・ワルシャワより)]

    [蜂起の消滅後には、厳しい報復が待っていた。ロシアの公式記録によれば、396人が処刑され、1万8672人がシベリア送りになった。多数の男女がカフカース地方、ウラル地方といったロシア内陸部に送り込まれた。またおよそ7万人が逮捕され、後にポーランド国外へ追放されてロシアから遠く離れた地域に身を落ちつけている。  (wikipedia・一月蜂起より)]

    ポーランド現地調査(概要) ⑨3月8日 北ワルシャワ要塞・死の門 青山貞一」、「ポーランド現地調査(概要) ⑨3月8日 北ワルシャワ要塞・北ワルシャワ10号棟博物館 青山貞一

    カメラ南西方向がツィタデラ (Citadel)の北門です。

    カメラ西方向がツィタデラ正門です。カメラ東方向には犠牲者の墓標が並び、カメラ北方向に追悼碑があります。

    追悼碑前のカメラで、カメラ東南東方向に犠牲者の墓標が並びます。

    カメラ北東方向がツィタデラ (Citadel)の西門です。

    カメラ北北西方向がツィタデラ (Citadel)の南門です。

    カメラ西南西方向がツィタデラ (Citadel)の南東端の城壁です。

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