マーカーはワルシャワ・ゲットーの壁です。
グーグル・アート・プロジェクト – 歴史上の人物 – 「ヤンカルスキー・人類のヒーロー」
ワルシャワゲットー(インタラクティブマップ)
ワルシャワ・ゲットーの壁
[1939年9月1日にナチス・ドイツ軍はポーランドへ進攻した。ワルシャワはドイツ軍に占領され、ハンス・フランクを総督とするポーランド総督府領に編入された。1939年10月4日にワルシャワ市に突入したゲシュタポが、同市のユダヤ人居住区を監督していたユダヤ人共同体(ケヒッラー)本部を占拠した。ユダヤ人共同体の長だったアダム・チェルニアコフをユダヤ人評議会の議長に任命し、ユダヤ人評議会の創設を命じた。戦前からユダヤ人居住区の指導者だった者たちが評議会のメンバーとなった。
ワルシャワの手工業者の80%はユダヤ人労働者であり、ワルシャワの生産体制はユダヤ人に支えられていたため、ドイツ当局も当初は彼らを完全に隔離することには慎重だったが、ワルシャワ、特にユダヤ人居住区ではチフスが流行していたため、結局、隔離が必要と判断されるようになっていった。
1939年11月7日、ワルシャワ地区行政長官(Verwaltungschef des Distrikts Warschau)のルートヴィヒ・フィッシャー突撃隊中将は、市内のユダヤ人居住区をゲットーにしてユダヤ人を閉じこめるべきであると提案した。同じ時期、ドイツ軍司令官はユダヤ人居住区に「伝染病汚染に付き立ち入り禁止区域」を設営し、ドイツ兵の出入りを禁じた。
1940年3月以降、ワルシャワ市内、特にユダヤ人居住区のチフスが深刻になった。駐留するドイツ兵への感染を心配したドイツ当局は、1940年3月にユダヤ人評議会に命令を下してユダヤ人居住区の周辺を壁で囲む事を命じた。壁の建設はユダヤ人評議会の負担で行われた。
1940年10月2日にはゲットー建設の正式な命令が下され、1940年11月に完成した。元来のユダヤ人居住区の三分の二の広さであった。
1940年11月16日にゲットーは封鎖され、自由な出入りはできなくなった。ゲットーの入口には両側に警備が配された。内側はユダヤ人ゲットー警察(ユダヤ人評議会指揮下)、外側はポーランド人とドイツ人による民警組織によって警備されていた。ゲットー住民は、ゲットーの外へ出る事が絶対的に必要である事を証明できた場合にのみ、通行許可証を与えられて、そこを通過することができた。
ユダヤ人居住区を隔離する壁の建設(1940年8月)・wikipedia-photo (wikipedia・ワルシャワ・ゲットーより)]
[現在も残るワルシャワ・ゲットー(実際のところは、第二次世界大戦でナチス・ドイツに占領されるまでは強制居住区である「ゲットー」ではなく自由居住区である自治区「シュテットル」であった)の壁の一部・wikipedia-photo (wikipedia・ゲットーより)]
[この壁の数か所空洞になっている部分の煉瓦は、現在ヒューストンとワシントンのホロコースト博物館、エルサレムのヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館に納められて展示されているとの表示。 (「過去から未来へ―復興ワルシャワ***ポーランド(2 – … 」より)]
「Zabytkowa Ściana Byłego Getta Żydowskiego – Google Map 画像リンク」
カメラ南西方向壁の向こう側の庭にワルシャワ・ゲットーの壁が保存されています。
カメラ北東方向がワルシャワ・ゲットーの壁で、壁面に地図が設置されています。
カメラ南方向がワルシャワ・ゲットーの壁です。
ワルシャワ・ゲットー
[第二次世界大戦でナチス・ドイツに占領されるまでポーランドにはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかった事実であろう。クラクフのカジミェシュ地区のように、シュテットルのすぐそばに国家にとって大事な立場にある教会が建てられていることもあった。13世紀のカリシュの法令以来ヨーロッパの他国と異なり民族的に寛容な政策を国家・社会の根幹となす伝統としていたポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。その旧市街でさえもユダヤ人居住制限が近世にどんどん緩和されていった。
第二次世界大戦時、ナチスはユダヤ人を非常に狭い地域に押し込めるために、東欧諸都市に「ゲットー」を復活させた。1939年以降、ナチスはポーランド国内のユダヤ人を大きな都市の特定地域に移動させ始め、1940年10月には占領下最大規模のワルシャワ・ゲットーが設けられるなど、多くのゲットーが1940年から1941年にかけて設定された。ワルシャワ・ゲットーは38万の住人を抱えるナチス占領下ヨーロッパで最大のゲットーとなった。
その後、ゲットーはホロコーストにおける事実上の強制収容所となった。ゲットーの生活は過酷を極め、伝染病や飢餓などによって数多くのユダヤ人がその命を落とした。1942年、ナチスはホロコーストの絶滅収容所へ強制移送を始める。ヨーロッパ各地のユダヤ人が東欧のゲットーもしくは直接に絶滅収容所へ移送され、ワルシャワ・ゲットーからだけでも52日間で30万人もの人がトレブリンカ強制収容所へ移送された。ワルシャワ・ゲットー蜂起をはじめとして、いくつかのゲットーでは武装蜂起が発生した。しかしどれも失敗に終わり、ゲットーのユダヤ人はほぼ完全に殺害された。 (wikipedia・ゲットーより)]