ワルシャワ・ゲットー歩道橋跡

マーカーはワルシャワ・ゲットー歩道橋跡です。

グーグル・アート・プロジェクト – 歴史上の人物 – 「ヤンカルスキー・人類のヒーロー

ワルシャワゲットー(インタラクティブマップ)

ワルシャワ・ゲットー歩道橋跡(ポーランド語:Kładka Pamięci)
[ゲットーはT字型をしており、広い北部(大ゲットー)と狭い南部(小ゲットー)に別れていた。「アーリア」区のフォドナ通りがゲットーを貫通していたためである(初めは貫通していなかったが、後にゲットーを小さくされた際にフォドナ通りのゲットーの地域が失われ、貫通した)。北部と南部をつなぐのは回廊部分に架けられた歩道橋だけである。当初は28あったゲットーの門は後に15に削減され、通行許可書の数も制限された。
ゲットーの全体図(1940年・赤線で囲った範囲)・wikipedia-photo、「ゲットーを北部と南部に分ける「アーリア」区のフォドナ通り。ゲットーの北部と南部を行き来できるのは回廊に架かったこの歩道橋だけだった。」・wikipedia-photo  (wikipedia・ワルシャワ・ゲットーより)]

Kładka Pamięci – Google Map 画像リンク」「A Footbridge Of Memory – Google Map 画像リンク

カメラ南方向、西北西方向にワルシャワ・ゲットー歩道橋跡のモニュメントが、カメラ北方向にワルシャワ・ゲットー跡碑があります。

ワルシャワ・ゲットー跡碑前のカメラです。

ワルシャワ・ゲットー
[第二次世界大戦ナチス・ドイツに占領されるまでポーランドにはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかった事実であろう。クラクフのカジミェシュ地区のように、シュテットルのすぐそばに国家にとって大事な立場にある教会が建てられていることもあった。13世紀のカリシュの法令以来ヨーロッパの他国と異なり民族的に寛容な政策を国家・社会の根幹となす伝統としていたポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。その旧市街でさえもユダヤ人居住制限が近世にどんどん緩和されていった。
第二次世界大戦時、ナチスはユダヤ人を非常に狭い地域に押し込めるために、東欧諸都市に「ゲットー」を復活させた。1939年以降、ナチスはポーランド国内のユダヤ人を大きな都市の特定地域に移動させ始め、1940年10月には占領下最大規模のワルシャワ・ゲットーが設けられるなど、多くのゲットーが1940年から1941年にかけて設定された。ワルシャワ・ゲットーは38万の住人を抱えるナチス占領下ヨーロッパで最大のゲットーとなった。
その後、ゲットーはホロコーストにおける事実上の強制収容所となった。ゲットーの生活は過酷を極め、伝染病や飢餓などによって数多くのユダヤ人がその命を落とした。1942年、ナチスはホロコーストの絶滅収容所へ強制移送を始める。ヨーロッパ各地のユダヤ人が東欧のゲットーもしくは直接に絶滅収容所へ移送され、ワルシャワ・ゲットーからだけでも52日間で30万人もの人がトレブリンカ強制収容所へ移送された。ワルシャワ・ゲットー蜂起をはじめとして、いくつかのゲットーでは武装蜂起が発生した。しかしどれも失敗に終わり、ゲットーのユダヤ人はほぼ完全に殺害された。  (wikipedia・ゲットーより)]

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