マーカーはワルシャワ・ゲットー蜂起記念碑です。
ワルシャワ・ゲットー蜂起記念碑(英語: Warsaw Ghetto Uprising、ポーランド語:Powstanie w getcie warszawskim、ドイツ語:Aufstand im Warschauer Ghetto)
[Google アートプロジェクト] – 「ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館」
グーグル・アート・プロジェクト – 歴史上の人物 – 「ヤンカルスキー・人類のヒーロー」
ワルシャワゲットー(インタラクティブマップ)
[ワルシャワ・ゲットー蜂起は、第二次世界大戦中の1943年4月から5月にかけてワルシャワ・ゲットーのユダヤ人レジスタンスたちが起こしたナチス・ドイツに対する武装蜂起である。
第二次世界大戦がはじまり、東ヨーロッパの諸都市がドイツ軍に占領されると、それらの都市で暮らすユダヤ人たちはゲットーに隔離されるようになった。しかし1942年から1943年にかけてナチス親衛隊(SS)は「ラインハルト作戦」を開始し、ゲットーのユダヤ人たちを続々と絶滅収容所に移送するようになった。ワルシャワ・ゲットーでも過酷な移送作戦が行われ、数多くのユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されて殺害された。
ユダヤ人の「追放」が始まった当初、ユダヤ人の抵抗組織のメンバーは会合を持ち、ドイツに対して戦わないことを決定していた。これは、ユダヤ人が殺されるのではなく、労働キャンプに送られるだけだと信じていたからであった。しかし、1942年の終わりには、「追放」と言うものが死の収容所へ送られることだとわかり、残ったユダヤ人は戦うことを決定した。
更なる移送作戦を阻止するため、モルデハイ・アニエレヴィッツ指揮下の「ユダヤ人戦闘組織」とダヴィド・アプフェルバウム(Dawid Moryc Apfelbaum)指揮下の「ユダヤ人軍事同盟(Żydowski Związek Wojskowy)」が1943年4月19日から5月16日にかけてナチスに対して武装蜂起を起こした。反乱を起こしたユダヤ人たちは貧弱な武装と劣悪な補給にもかかわらず粘り強く戦ったが、最終的にはユルゲン・シュトロープSS少将率いる武装SS・ドイツ秩序警察・ドイツ国防軍などから成る混成部隊によって完全に鎮圧された。
鎮圧後、ワルシャワ・ゲットーの住民ほとんどがSSによって捕えられ、トレブリンカ、マイダネク、あるいは強制労働収容所へと移送され、ワルシャワ・ゲットーは解体された。
なおこの蜂起は基本的にワルシャワ・ゲットーのみの蜂起であり、この翌年の1944年にワルシャワ市内各地で発生したワルシャワ蜂起とは別個の蜂起である。
1970年12月7日に西ドイツ首相であるヴィリー・ブラントは、当時共産党独裁体制下にあったポーランド人民共和国を公式訪問した際に、蜂起の記念碑にひざまずいて哀悼の意を示した。だがこのことは戦後の共産党独裁下のポーランド人民共和国においてはほとんど公表されなかった。共産党独裁体制下のポーランドにおいてはホロコーストやワルシャワ・ゲットー蜂起に関する事実はほとんど語られることがなかった。かろうじてゲットー英雄記念碑が建てられたぐらいであった。しかし東欧革命によってポーランドの共産党独裁体制が崩壊するとポーランドとイスラエルは国交を回復。1991年5月にワレサ大統領がポーランド大統領としてはじめてイスラエルを訪問し、イスラエル国会においてポーランド人の中にも反ユダヤ主義があったことを認めて謝罪を行った。
「ワルシャワ・ゲットー蜂起当時のユダヤ人」・wikipedia-photo、捕虜のユダヤ人レジスタンスたち・wikipedia-photo、wikipedia-photo、拘束したゲットー住民の身体検査・wikipedia-photo、拘束したゲットー住民の尋問・wikipedia-photo、「ワルシャワ・ゲットーの英雄記念碑」・wikipedia-photo (wikipedia・ワルシャワ・ゲットー蜂起より)]
[ワルシャワ・ゲットー記念広場にあるワルシャワ・ゲットー蜂起を記念する「ゲットー英雄記念碑」。中央に描かれているのは蜂起指導者モルデハイ・アニエレヴィッツ。」・wikipedia-photo (wikipedia・ワルシャワ・ゲットーより)]
「Pomnik Bohaterów Getta w Warszawie – Google Map 画像リンク」
カメラ東北東方向がワルシャワ・ゲットー蜂起記念碑で、カメラ西方向がポーランド・ユダヤ人の歴史博物館です。
ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館前のカメラです。
ポーランド・ユダヤ人の歴史博物館のストリートビューです。
ワルシャワ・ゲットー
[第二次世界大戦でナチス・ドイツに占領されるまでポーランドにはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかった事実であろう。クラクフのカジミェシュ地区のように、シュテットルのすぐそばに国家にとって大事な立場にある教会が建てられていることもあった。13世紀のカリシュの法令以来ヨーロッパの他国と異なり民族的に寛容な政策を国家・社会の根幹となす伝統としていたポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができた。その旧市街でさえもユダヤ人居住制限が近世にどんどん緩和されていった。
第二次世界大戦時、ナチスはユダヤ人を非常に狭い地域に押し込めるために、東欧諸都市に「ゲットー」を復活させた。1939年以降、ナチスはポーランド国内のユダヤ人を大きな都市の特定地域に移動させ始め、1940年10月には占領下最大規模のワルシャワ・ゲットーが設けられるなど、多くのゲットーが1940年から1941年にかけて設定された。ワルシャワ・ゲットーは38万の住人を抱えるナチス占領下ヨーロッパで最大のゲットーとなった。
その後、ゲットーはホロコーストにおける事実上の強制収容所となった。ゲットーの生活は過酷を極め、伝染病や飢餓などによって数多くのユダヤ人がその命を落とした。1942年、ナチスはホロコーストの絶滅収容所へ強制移送を始める。ヨーロッパ各地のユダヤ人が東欧のゲットーもしくは直接に絶滅収容所へ移送され、ワルシャワ・ゲットーからだけでも52日間で30万人もの人がトレブリンカ強制収容所へ移送された。ワルシャワ・ゲットー蜂起をはじめとして、いくつかのゲットーでは武装蜂起が発生した。しかしどれも失敗に終わり、ゲットーのユダヤ人はほぼ完全に殺害された。 (wikipedia・ゲットーより)]