ワルシャワ大学

マーカーはワルシャワ大学です。

ワルシャワ大学
[法律・経営学校と医科学校が合併して1816年に創設された、ワルシャワでの最初の大学です。しかし1831年にはロシア政府によって閉
鎖されました。大学は、1862~69年に中央学校と名前が変わり、1869年にはロシア語で講義全てを行うロシア皇帝のワルシャワ大学として再開されました。現存のワルシャワ大学は1915年から活動しており、そこには複数の歴史的な建物があります。  (「ワルシャワ観光案内所のサービスについて – Warszawa]」より)]

[ワルシャワ大学(ポーランド語: Uniwersytet Warszawski)はポーランドワルシャワにある大学。
1816年、ロシア皇帝アレクサンドル1世ポーランド立憲王国に大学を開設する権限を与えたことにより法学行政学、医学、哲学、神学、芸術学の5学部体制で設立された。開設されてから間もなく学生500名、教授陣50名を擁するまでになった。しかし、学生や教授の大部分は1830年の十一月蜂起に加わり大学は閉鎖された。
1826年から1829年の間、ポーランドを代表する作曲家フレデリック・ショパンがこの大学で学んでいた。
1857年、クリミア戦争が終わりロシア帝国につかの間の平静が訪れるとワルシャワに医学の単科大学”Akademia Medyko-Chirurgiczna”を設立する許可が下りた。1862年になり法学行政学、文学歴史学、物理学数学の学部が新たに開設された。この新設大学はすぐに重要な研究機関となりSzkoła Główna(中心的な大学)と改称されたものの、1863年の一月蜂起によりポーランド語による教育機関は全て閉鎖された為この大学もそれに伴い閉鎖された。数年間しか存在しなかった大学であったが、3000人を超える学生を輩出しその多くはポーランドの知識人としてポーランドのその後を担う人材となった。
1870年、Szkoła Główna(中心的な大学)にかわってロシア語による教育がなされるCesarski Uniwersytet Warszawski(ワルシャワ帝国大学) が設立された。この大学は以前の大学とは異なり、ワルシャワ駐在のロシア軍兵士に教育をすることに主眼がおかれていた。しかし学生の7割はポーランド人であった。その後ポーランド人の学生達はロシア帝国の教育を拒むことを宣言し、大学におけるポーランド人の比率は1割未満へと低下した。
1915年、第一次世界大戦によりワルシャワがドイツ帝国によって占領されるとワルシャワにおける大学教育が許可され、教授たちの復学とポーランド語による教育が認められたものの独立運動へとつながることを懸念したドイツ軍政は講師の数を制限するなどの規制を敷いた。学生の数は規制されていなかった。1918年、第一次世界大戦が終結しポーランド第二共和制が建国されるとワルシャワ大学は急速に成長した。
1939年、ナチス・ドイツポーランド侵攻によりナチス・ドイツの支配下に入ると、ナチスはポーランド国内の全ての高等教育機関の閉鎖を命じ、ワルシャワ大学の研究設備はドイツの大学に分配され、大学施設はドイツ軍の兵舎として接収された。この閉鎖はポーランド人に高等教育は不要であるというナチスの差別思想に基づくものである。大学を閉鎖するだけに止まらず、ナチス軍政はポーランド国内における高等教育そのものを禁止し、これに反する者は死刑に処せられた。このような厳しい規制の下でも元教授らの多くはTajny Uniwersytet Warszawski(ワルシャワ秘密大学)と呼ばれる地下組織を結成し死の危険を覚悟でアパートの一室などに少人数で集まり講義を行った。この地下組織は急速に広がり秘密大学における講義は300講座、学生数は3500人にものぼった。学生の多くは国内軍等の組織の一員としてワルシャワ蜂起に参加した。大学のキャンパスではワルシャワ蜂起の初日から激しい戦闘が繰り広げられたが、ドイツ軍のワルシャワ駐屯地が大学の付近にあったこともあり大学のキャンパスは機関銃等で重武装されていたため結局大学の敷地は終戦まで奪還できなかった。ワルシャワ蜂起または教育禁止令により63人の教授が犠牲となった。1944年の戦闘で大学施設の60%が損壊し、大学が所蔵していた資料の80%が破壊もしくはドイツへ持ち去られ戻ってくることはなかった。
大学の正門・wikipedis-photo  (wikipedia・ワルシャワ大学より)]

カメラ東北東方向がワルシャワ大学正門です。

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