孤児院ドム・シエロ跡

マーカーはカメラ位置孤児院ドム・シエロ跡です。

ワルシャワゲットー(インタラクティブマップ)

孤児院ドム・シエロ
[ヤヌシュ・コルチャックは1911年、新しく建設されるユダヤ人の孤児のための孤児院の院長のポストを打診された時、彼はその職を受諾し、その地位に就くことを決意した。この孤児院、ドム・シエロ(「孤児たちの家」の意)に、彼の生涯を捧げた。ユダヤ人の組織「孤児支援」により運営されたこの孤児院は、14歳までのユダヤ人の孤児を受け入れていた。コルチャックは、原則的な子供の権利に立脚した理想を貫き、新たな道を模索し、例えば子ども共和国モデルの移植のようなものであるが、教育的なかかわりの余地を作り出した。壁新聞、子ども集会、仲間裁判など、注目すべき教育実践を行った。
1939年ナチス・ドイツポーランド侵攻によりヨーロッパ第二次世界大戦が始まった。それと共に国家社会主義反ユダヤ主義を背景に、大規模なユダヤ人に対する差別、迫害が始まり、これはホロコーストという、過去に例を見ない大規模な民族虐殺に向かうことになる。1940年10月ユダヤ人の孤児院の子供たちはワルシャワ・ゲットーに移住するようにとの命令を受けて、ドム・シエロの教師と子供たちは、その建物はすぐ目の前の都市部にあるにも係わらずゲットーへの移動を余儀なくされる。
1942年8月6日、ナチスのいわゆる「ユダヤ問題最終解決」の名の下、孤児院の200人の子供たちは、孤児院を出て、緑の旗を立てて、集荷場と名付けられたユダヤ人をゲットーから移送するための駅まで行進し、親衛隊によりトレブリンカ強制収容所(正しくは「トレブリンカ抹殺キャンプ」)に移送された。コルチャックは、子供たちを見捨てて自分だけが助かることを拒否し、恐らく1942年8月6日、ナチスにより到着のその日に、子供たちと共にガス室で殺害された。あるいは、遺体を埋めるための大きな穴(現在のトレブリンカの強制収容所の跡地の22番と番号の振られた箇所)の前で、子どもたちと共に銃殺されたという説もある。トレブリンカの犠牲者の記念碑は、数多くの自然石を配列したもので構成されている。そのうちの一部には、これらの犠牲者がここに移送されてきた土地の名、都市名や小さな町や村の名が刻まれているが、そのうち唯一例外的に「ヤヌシュ・コルチャックと子どもたち」と刻まれている記念碑がある。
「クロフマルナ通りの孤児院ドム・シエロ、1933年以前」・wikipedia-photo、「現在のドム・シエロ、三階の屋根裏部屋がなくなっている。建物正面にあるのはコルチャックの記念碑。裏にはコルチャックの主だった協力者数人の生没年と事績を書いた金色のプレートが貼られている。建物の入り口は階段を上った二階正面。その右手に細長く高いモニュメントがあるのもコルチャック像。二階入って右手にコルチャック研究所がある。」・wikipedia-photo、「ワルシャワのユダヤ人墓地にあるコルチャックと子どもたちの記念碑」・wikipedia-photo、イスラエルにあるコルチャックと子供達の記念碑(1978年、Boris Saktsier)・wikipedia-photo  (wikipedia・ヤヌシュ・コルチャックより)]

カメラ北方向が孤児院ドム・シエロ跡です。

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