王宮前広場

マーカーは王宮前広場です。

王宮前広場
[ワルシャワについての最古の文書は13世紀、1285年のものである。当時のワルシャワはマゾフシェ公爵領に属し、漁業を中心とする寒村であった。マゾフシェ公爵家の家系の断絶に伴い、マゾフシェ地方はポーランド王国に編入された。1596年、ジグムント3世による野心的な政策によってポーランド王宮廷は古都クラクフより移転し、ワルシャワは1611年に正式にポーランド(立憲君主制の多民族連邦国家ポーランド・リトアニア共和国)の首都となり、以来、「北のパリ」として発展を遂げる。
現在ワルシャワ北部にある「旧市街」(Stare Miasto、1611年のワルシャワ遷都より前に作られた歴史的市街地)とその北隣りの「新市街」(Nowe Miasto、1611年のワルシャワ遷都以後に作られた歴史的市街地)は、第二次世界大戦ナチス・ドイツ軍により破壊されたが、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現されたものである。この旧市街(Stare Miasto)、新市街(Nowe Miasto)、クラクフ郊外通り(Krakowskie Przedmiescie)、新世界通り(Nowy Świat)、およびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含む「ワルシャワ歴史地区」は1980年、ユネスコの世界遺産に登録された。  (wikipdia・ワルシャワより)]

ジグムント3世の像
[ワルシャワにある最古のこの像は、ポーランドの首都をクラクフからワルシャワへ遷したジグムント3世ヴァーサ国王を偲んで、その息子であったヴワディスワフ4世が1644年に建てたものです。像の創作者はC.モルリでした。しかし1944年にこの像は破壊され、復元は戦後
1949年に行われました(像の高さは22メートルです)。  (「ワルシャワ観光案内所のサービスについて – Warszawa」より)]

Stare Miasto – Google Map 画像リンク」「Sigismund’s Column – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向にジグムント3世王の像のコルムナ(石柱)で、カメラ北東方向が王宮です。

王宮前広場夜のカメラです。

ジグムント3世
[ジグムント3世(Zygmunt III、1566年6月20日 – 1632年4月19日)はポーランド・リトアニア共和国の国王(在位:1587年 – 1632年)、ヴァーサ朝第4代のスウェーデン王(在位:1592年 – 1599年)。スウェーデン王ヨハン3世と、王妃でポーランド王ジグムント1世の娘カタジナ・ヤギェロンカの長男。スウェーデン王としてはシギスムンド(Sigismund)と称される。
ジグムント3世は1587年、ポーランド王ステファン・バートリの死を受けて、シュラフタによる自由選挙でポーランド王に選ばれた。ヴァーサ家出身のジグムントがポーランド王に選ばれたのは、母親を通じてヤギェウォ朝の血を引いていたのと、リヴォニア戦争でスウェーデンと同盟を結んでいたからであった。両国が共闘してバルト地域を保有し、モスクワ大公国ロシア・ツァーリ国)のバルト海進出を阻むための政略的な結果であった。
ジグムント3世は政治的思惑により幼くしてポーランド王国かつポーランド・リトアニア共和国の首都クラクフへ預けられ、カトリック改革の主導的存在であったイエズス会の手で教育を受け、本国スウェーデン及びヴァーサ家がルター派プロテスタント国家であるにもかかわらず熱烈なカトリック教徒となった。このため、1592年、父ヨハン3世が死去すると、ジグムント3世はポーランドを出国せずにスウェーデン王位を継承し、叔父カール(後のスウェーデン王カール9世)が摂政としてスウェーデンを治めた。
しかし近世的な君主と国家との宗教的一致を損なうジグムント3世とスウェーデンとの関係は、次第に悪化していった。ジグムント3世は1594年、ウプサラで正式にスウェーデン王シギスムンドとして戴冠するが、スウェーデンのプロテスタント信仰を容認せざるを得なかった。ジグムント3世がポーランドに帰国すると、スウェーデンでは摂政カールが国王代理として勢力を強めていく。こうした両国の不和のために、スウェーデンは1590年からのロシア・スウェーデン戦争に敗れ、1595年にリヴォニア戦争で得たフィンランド湾深奥部を失う事となった。
1598年、ジグムント3世はスウェーデンに渡って叔父カールの反乱軍と戦ったが、敗れてポーランドへと戻った。翌1599年にジグムント3世がスウェーデン王位を退位させられた結果、ヴァーサ家はスウェーデン王家とポーランド王家とに分裂することとなった。以後、1629年のスウェーデン・ポーランド戦争終結まで、ジグムント3世はスウェーデンの王位を要求し続け、常に対決姿勢を崩さなかった。1605年にカール9世がリガに侵攻するとこれを退けている。
1621年、スウェーデン王となった従弟のグスタフ2世アドルフリガに侵攻し、8年にわたるスウェーデン・ポーランド戦争が開始された。戦争当初ジグムント3世はスウェーデン軍に圧倒され、リガが陥落した後、1626年までに従属国プロイセン公国東プロイセン)を占領された。しかしジグムント3世はハプスブルク家と同盟を結び、さらに、ヘトマンとなったばかりの若き天才将軍スタニスワフ・コニェツポルスキの大活躍でワルシャワ侵攻を阻止、その後コニェツポルスキ率いるポーランドは攻勢に転じ、画期的な戦法を駆使してスウェーデン軍を次々と撃破、スウェーデンの勢力をバルト海沿岸まで押し返すことに成功した。1629年、ポーランドとスウェーデンは、アルトマルクの和議を結び、戦争は終結した。ジグムント3世は1632年4月19日死去。  (wikipedia・ジグムント3世より)]

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