1944年ワルシャワ蜂起記念碑

マーカーは1944年ワルシャワ蜂起記念碑です。

1944年ワルシャワ蜂起記念碑
[ワルシャワ蜂起(英語:Warsaw Uprising、ポーランド語:Powstanie Warszawskie)は、第二次世界大戦ナチス・ドイツ占領下のワルシャワで起こった武装蜂起である。
1944年6月22日から開始された、ソビエト赤軍によるバグラチオン作戦の成功により、ドイツ中央軍集団は壊滅し、ナチス・ドイツは敗走を重ねた。ドイツ軍は東部占領地域に再編成・治安維持のために駐屯する部隊をかき集めて戦線の穴を埋めて防戦に努めた。ソビエト赤軍占領地域がポーランド東部一帯にまで及ぶと、ソ連ポーランドレジスタンスに蜂起を呼びかけた。7月30日にはソ連軍はワルシャワから10kmの地点まで進出。ワルシャワ占領も時間の問題と思われた。ポーランド国内軍はそれに呼応するような形で、8月1日、ドイツ軍兵力が希薄になったワルシャワで武装蜂起することをソ連軍と打ち合わせた。しかし、7月31日にはドイツ軍が反撃、ソ連軍は甚大な損害を被る。さらにソ連軍は補給に行き詰まり、進軍を停止した。しかし国内軍にはソ連軍進撃停止の情報は伝えられなかった。にもかかわらず、その直前の7月29日にはモスクワからは蜂起開始を呼びかけるラジオ放送が流れ続けており、ソ連軍の位置からそのワルシャワ到着は大きくは遅れないと判断された。8月1日午後5時ちょうど、約5万人のポーランド国内軍は蜂起を開始。国内軍は橋、官庁、駅、ドイツ軍の兵舎、補給所を襲撃する。この時刻は「時刻W」と呼ばれ、現在では毎年8月1日のこの時刻にワルシャワ市すべてにサイレンが鳴り渡り、市民がめいめいその場で動きを止め、1分間の黙祷を捧げる一大行事が行われる。ソビエトはイギリスやアメリカの航空機に対する飛行場での再補給や、西側連合国による反乱軍の航空支援に対し同意せず、質・量に勝るドイツ軍に圧倒され、蜂起は失敗に向かっていく。ドイツ軍は重火器、戦車、火炎放射器など圧倒的な火力の差で徐々に国内軍を追いつめていった。8月31日には、国内軍は分断された北側の解放区を放棄し、地下水道を使って南側の解放区に脱出する。9月末には国内軍はほぼ潰滅する。その後、ドイツ軍による懲罰的攻撃によりワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われる。10月2日、国内軍はドイツ軍に降伏しワルシャワ蜂起は完全に鎮圧された。
ドイツ武装親衛隊の倉庫から奪った装備に腕章を着用した国内軍兵士・wikipedia-photo、「1944年10月2日、ワルシャワ蜂起指導者タデウシュ・コモロフスキ(左)の降伏を受け入れる鎮圧軍司令官エーリヒ・フォン・デム・バッハ(右)」・wikipedia-photo、「蜂起終結後、火炎放射器による市街の破壊を行うドイツ軍」・wikipedia-photo  (wikipedia・ワルシャワ蜂起より)]

Warsaw Uprising Monument – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向・最高裁判所前が1944年ワルシャワ蜂起記念碑です。

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