リガ市庁舎

マーカーはリガ市庁舎です。

リガ
[リガの記録は既に2世紀には見られる。長くヴァリャーグによる東ローマ帝国への交易ルートとして、ダウガヴァ川は古来より利用されており、河口から15キロに広がるリガは、天然の良港であった。リガという名称もリヴォニア語の「円」という意味から由来する、とされる。(港の形状が円形だった。)
12世紀までには交易だけでなく漁業や畜産の拠点となり、ドイツ人商人の入植も12世紀半ばから盛んになる。教皇インノケンティウス3世の命を受けたシトー会アルベルトが、1200年に北方十字軍を組織しリヴォニアに侵攻、23隻の軍艦と1500人の十字軍兵でリガを制圧し、リーヴ人の服属と改宗を行った。1202年に、アルベルトは、リヴォニア帯剣騎士団をリガで創立。以降、リガはバルト海ロシアの中継貿易拠点として重きをなしてくる。1282年にはハンザ同盟に加盟。経済発展の地歩を固めるが、同時にリガの繁栄は侵略者を招くこととなる。1522年には、プロテスタントを受容。1561年のドイツ騎士団の解散で、それ以後の20年間は帝国自由都市となる。
1581年から、リガはポーランド・リトアニア共和国の支配を、1621年からはグスタフ2世アドルフのスウェーデン王国の支配を受ける。リガはスウェーデン王国最大の都市であった。18世紀に大北方戦争が起こると、ロシア帝国ピョートル1世がリガに侵攻、スウェーデン時代は終焉を迎える。
ニスタット条約で、リガはロシアに割譲され、第一次世界大戦までロシア領として、ロシアの重要な交易拠点とされた。20世紀まで、ロシアでモスクワサンクトペテルブルクに次ぐ第3の都市はリガであった。しかし、支配者の変遷にかかわらず、リガの住民の多くは、バルト・ドイツ人であった。
そうした中で、19世紀後半には、ラトビアの民族主義が覚醒。1918年にはラトビアはブレスト=リトフスク条約でドイツ帝国に割譲されるも、第一次世界大戦の終結でラトビアは独立を宣言。第二次世界大戦までの数年間は、リガが外交・文化的に英国に接近した時代だった。第二次世界大戦が始めると、リガはまずソ連に、そしてナチス・ドイツの軍事占領を経験する。大戦中、バルト・ドイツ人はドイツ本国に脱出し、リガのゲットーにいたユダヤ人は銃殺されるかカイザーヴァルト強制収容所送りとなった。1945年にソ連の赤軍が再度リガに軍事侵攻。ラトビア人を大量に処刑、シベリア送りにしたことから、市の人口は3分の1にまで激減することになった。代わりに、ソ連政府はロシア人をリガに集団移住させ、リガ市の民族構成は一変してしまう。1991年、ラトビアは独立を回復、リガも首都に返り咲いた。  (wikipedia・リガより)]

リガ市庁舎
[13世紀から18世紀にかけて築かれたリーガ旧市街の中心に位置する(Rātslaukums)にある市庁舎。 夜はライトアップされ、年末年始には花火が打ち上げられ、市庁舎広場はリーガ市民でにぎわう。  (「ラトビアのみどころ」より)]

カメラ西北西方向がリガ市庁舎です。

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