1991年のバリケードの博物館

マーカーは1991年のバリケードの博物館です。

1991年のバリケードの博物館
[1990年代にラトヴィアでは、橙の目標であるラトヴィア共和国の独立を取り戻すための民族覚醒が起こりました。ソ連政府はこの動きに絶望的な妨害を加えました。1991年1月にその戦いが極限に達したときに、人々は「ラトヴィア人民戦線」の呼びかけに呼応し、ラトヴィアの独立運動を皆で守るためにバリケードを築き、モスクワの軍事力を阻止しました。バリケードが築かれた期間の出来事を歴史的な記憶として残し、また国の独立の概念を現代社会において体現すべく、2001年5月24日に「1991年のバリケード参加者サポート基金」によって「1991年のバリケード記念館」が設立されました。
「1991年のバリケード記念館」は、リーガ旧市街の中心部、クラーム通りにあります。クラーム通りは旧市街の最も古い通りのうちのひとつであり(1342年に初めて文章に登場する)、昔の城壁のすぐ傍らに位置しています。この通りには、17世紀にラトヴィア語の本も出版したリーガにおける最初の出版所であるニコラス・モリン(Nicolas Mollin)の印刷所があったことで有名です。
 「1991年のバリケード記念館」のある建物は、1508年に初めて文書に書かれています。入り口は18世紀後期に特有の石づくりのポータル(宮殿の表玄関)で装飾されています。また内部のそれぞれの部屋は、19世紀に修復された古典主義バロック様式で描かれた天井画で装飾されています。19世紀に建物は、ドイツ商人ジークフリート・ゴットフリートにより所有されていました。1939年から1940年のバルト・ドイツ人たちの本国帰還後、建物はラトヴィア信託銀行の管理となり、ソ連時代にはラトヴィア農学校が入っていました。1997年よりこの建物には、「1991年のバリケード参加者サポート」及び「1991年のバリケード記念館」が入っています。 [1991年のバリケード記念館のパンフレットから。]

[1月20日、約10万人のソ連市民は、バルト海沿岸諸国の独立運動を支持するためモスクワに集まった。
 1月20日、リーガのバリケードを親ソビエト運が攻撃、2人の警察官、男生徒、およびカメラマンが殺された。 別のカメラマンは負傷で死んだ。さらに44人のバウスカの警察官、バリケードの5人の関係者、ハンガリー人のジャーナリストおよびロシア人のジャーナリストが負傷した。このバリケード事件で、リーガ市民らが少なくとも7人が親ソ連軍に殺され、合計1万5611人がバリケード事件に参加していたことになっている。  (「バルト3国現地調査、リーガ歴史地区 ⑪1991年のバリケード記念館 」より)]

カメラ北北西方向がバリケードの博物館です。

バリケードの博物館内のストリートビューです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*