スギハラ通り

マーカーはカメラ位置です。

スギハラ通り
[1991年(平成3年)- 9月、リトアニア政府のヴィータウタス・ランズベルギス議長は、杉原千畝の功績を讚えるため、通りの一つを「スギハラ通り」と命名している。  (wikipedia・ヴィリニュス関連項目より)]

杉原千畝
[杉原 千畝(すぎはら ちうね、1900年(明治33年)1月1日 – 1986年(昭和61年)7月31日)は、日本の官僚、外交官。
1900年(<明治33年)1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる。第二次世界大戦中、リトアニアカウナス領事館に赴任していた杉原は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド欧州各地から逃れてきた難民たちの窮状に同情。外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給し、およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られる。その避難民の多くが、ユダヤ系であった。海外では、「日本のシンドラー」などと呼ばれることがある。
杉原千畝は、1937年(昭和12年)にはフィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任し、次いで1939年(昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。ちなみに千畝は当初、念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が、反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、ペルソナ・ノン・グラータを発動して杉原の赴任を拒絶した。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使を呼び出して、杉原の入国拒否の理由を再三尋ね、ソ連に敵愾心を持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった。ソ連が最後まで入国自体も認めなかったために、千畝は行先を近隣のヘルシンキへと変更された。
千畝が欧州に派遣された1938年(昭和13年)、ナチス・ドイツユダヤ人迫害によって極東に向かう避難民が増えていることに懸念を示す山路章・ウィーン総領事は、ユダヤ難民が日本に向かった場合の方針を照会する請訓電報を送り、10月7日近衛外務大臣から在外公館への極秘の訓令「猶太避難民ノ入國ニ関する件」が回電された。千畝がカウナスに臨時の領事館を開設する直前のことである。この訓命は、ユダヤ人差別が外部に露見すると海外から非難を受けることは必至なので、「外部ニ対シテハ単ニ『避難民』ノ名義トスルコト」と明記され、わざわざ内訓を外部に公表しないことを念を押し、ユダヤ避難民が日本に来ることを断念するように仕向けるよう指示した機密命令であり、日本政府は、いわゆる「五相会議」決定のユダヤ人保護案を表面上示しながら、裏ではユダヤ人差別を指示する二重外交を展開していたのである。(※ユダヤ難民に対する当時の日本の政策「外務省ユダヤ難民取り扱い規則」)
ユダヤ避難民は、ドイツ軍が追撃してくる西方に退路を探すのは問題外だった。そして、今度はトルコ政府がビザ発給を拒否するようになった。こうして、トルコ領から直接パレスチナに向かうルートも閉ざされた。もはや逃げ道は、シベリア鉄道を経て極東に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。難民たちが、カウナスの日本領事館に殺到したのには、こうした背景があった。
1940年(昭和15年)7月、ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本領事館に名目上の行き先(オランダ領キュラソーなど)への通過ビザを求めて殺到した。「忘れもしない1940年7月18日の早朝の事であった」と回想する千畝は、その手記のなかで、あの運命の日の光景をこう描いている。「6時少し前。表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、意味の分からぬわめき声は人だかりの人数が増えるためか、次第に高く激しくなってゆく。で、私は急ぎカーテンの端の隙間から外をえかがうに、なんと、これはヨレヨレの服装をした老若男女で、いろいろの人相の人々が、ザッと100人も公邸の鉄柵に寄り掛かって、こちらに向かって何かを訴えている光景が眼に映った」。
杉原夫人が、難民たちの内にいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、「町のかどで、飢えて、息も絶えようとする幼な子の命のために、主にむかって両手をあげよ」という「旧約の預言者エレミアの『哀歌』が突然心に浮かん」だ。そして、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」という千畝の問いかけに、「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうして上げて下さい」と同意。そこで杉原は、苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても独断で通過査証を発給した。
ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながら一カ月余寝る間も惜しんでビザを書き続けた千畝は、本省からのベルリンへの移動命令が無視できなくなると、領事館内すべての重要書類を焼却し、家族と共に今日まで残る老舗ホテル「メトロポリス」に移った。杉原は領事印を荷物に梱包してしまったため、ホテル内で仮通行書を発行した。そして9月5日、ベルリンへ旅立つ車上の人になっても、杉原は車窓から手渡しされたビザを書き続けた。その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼった。汽車が走り出し、もうビザを書くことができなくなって、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と千畝が頭を下げると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがった。そして「列車と並んで泣きながら走っている人」が、千畝たちの「姿が見えなくなるまで何度も叫び続けて」いた。
日本領事館の閉鎖日が近づくとともに、作業の効率化のため千畝は途中から記録するのを止めてしまい、規定の手数料を徴収することも忘れていた。実際には、記録に残っているビザ以外にもビザや渡航証明書が発給されているが、記録外の実数は把握できない。また、一家族につき、一枚のビザで充分であったため、家族を含めて少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられている。  (wikipedia・杉原千畝より)]

杉原千畝記念碑、カウナスの杉原千畝記念館、カウナス駅

南・北方向の道路がスギハラ通りです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

*