ヴィリニュスに唯一残ったシナゴーグ

マーカーはヴィリニュスに唯一残ったシナゴーグです。

[「古い歴史を持つリトアニア国家について述べるとき、『ユダヤ人』あるいは『ユダヤ問題』は無視できない」と言われるように、リトアニアには古代から多くのユダヤ人が住んでいた。ヴィリニュスから 35 km ほど南に下ったところにあるエイシシュケス (Eišiškes) という街にあるユダヤ人の墓石は1171年に建てられたとされ、リトアニアのユダヤ人の起源の古さが見てとれるが、ただし彼らがどこから来たのかについては黒海沿岸や西欧など諸説あり、あまりよく分かっていない。またユダヤ問題は単に宗教上の問題であるだけにとどまらず、「ユダヤ人」という民族の問題としても捉えられる。
13世紀にユダヤ人コミュニティが誕生して以来、ヴィリニュスには常に多数のユダヤ人が生活してきた。1805年に「ユダヤ人法」が施行されるとユダヤ人特別強制居住区が設定され、1880年にはユダヤ人は都市部に居住しなければならないと定められたことから、19世紀には以前にも増して多くのユダヤ人がヴィリニュスに住むようになり、ヴィリニュスは「リトアニアのイェルサレム」とも「北のイェルサレム」とも呼ばれた。
ヴィリニュスのユダヤ人人口は、1500年には約 6,000 人であったが、1900年には約 64,000 人にまで増えた。19世紀末におけるリトアニア・ユダヤ人の人口は約16万人であったから、その約4割がヴィリニュスに居住していたことになる。その後1914年にはヴィリニュスのユダヤ人人口は10万人にまで増加し、市の人口の 43 % を占めるまでになった。
第一次世界大戦後ヴィリニュスはポーランド領となった(ポーランド語: Wilno ヴィルノ)。ヴィリニュスは、ワルシャワ、ルヴフ(現・ウクライナリヴィウ)、クラクフと並ぶ、ポーランド文化の4大拠点の一つに位置づけられていたが、その中でもユダヤ人はポーランド人以上の存在であり続け、ヴィリニュスはユダヤ人のあいだでイディッシュ語のヴィルネ(Vilne)と呼ばれてきた。
このように1920年代から1930年代にかけて、ポーランド共和国下のヴィリニュスでイディッシュ文化を育んできたユダヤ人であったが、1940年代に入るとナチス・ドイツによる占領によりユダヤ人の状況は一変する。
第二次世界大戦中にリトアニアがナチス・ドイツの占領下に入ると、ユダヤ人の多くは特に都市で迫害を受け、虐殺されるかあるいはソ連へ逃亡するなどした。ソ連に逃れた者の中には赤軍に入隊したりKGBの幹部となった者も多い。1941年末までに18万人のユダヤ人が殺され、また1942年半ばまでにユダヤ人の 80 % が殺害されたともいわれる。
リトアニアでホロコーストが起きた背景にはリトアニア系住民の加担があるとの指摘もされる。実際、ナチス・ドイツ当局がリトアニア・ユダヤ人の組織的殺戮を指示、支援しつつ、現地のリトアニア人協力者がその指示のもと計画を実行していった。
他方でユダヤ人の救出に尽力した者も多くいた。数百人のリトアニア人がユダヤ人保護のために危険を冒したとされる。戦後、イスラエル政府はユダヤ人救出のために危険を冒した 723 名のリトアニア人に対して「諸国民の中の正義の人」の称号を与えている。なおこの称号は、当時リトアニアでユダヤ人に査証を発行したことで知られる杉原千畝にも送られている。
ヴィリニュスに唯一残ったシナゴーグ
ユダヤ人富裕層によって1894年に建設が着工され、1903年に完成した。かつてヴィリニュスには105のユダヤ関連施設があったが、現在はこのシナゴーグが唯一残る施設となっている。ドアの上にある飾り額には「祈る人の家は全ての人にとって聖なる場所である」とヘブライ語で書かれている。
ヴィリニュスにあるシナゴーグ・wikipedia-photo  (wikipedia・リトアニアの宗教ユダヤ教」より)]

カメラ南南西方向がヴィリニュスに唯一残ったシナゴーグです。

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