ヴィリニュス大学

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ヴィリニュス大学
[ヴィリニュス大学(英語: Vilnius University)は、リトアニア共和国ヴィリニュス県ヴィリニュス市に本部を置くリトアニアの国立大学である。1579年に設置された。この地方ではクラクフヤギェウォ大学(1364年)、ケーニヒスベルクの大学(1544年)に次いで創立された、最も古い大学の一つである。
1568年、リトアニアの貴族がヴィリニュスまたはカウナスにおける高等教育機関の設立をイエズス会に要請した。翌年、ヴィリニュス司教の Walerian Protasewicz が街の中心にある複数の建物を購入し、1570年、コレギウム(高等学校)を創設した。設立された当初、コレギウムには人文科学(文法、修辞、論理の三学科)、哲学、神学の3つの部門があった。最初に学生が在籍したのはコレギウムが創設された1570年のことで、この年には160人の学生が在籍した。同じ年には大学図書館も設立され、ジグムント2世によって2,500冊の本が寄贈されている。
1575年、ミコワイ・クシシュトフ公らの支援により大学に印刷所が完成した。これはこの地域で最も古い印刷所の一つで、ここではラテン語ポーランド語による本が印刷され、さらに1595年には、リトアニア語で書かれた、リトアニア大公国で印刷されたものでは現存する最古の本もここで印刷されている。
アカデミーは17世紀まで発展を続けた。しかし、後に大洪水時代と呼ばれることとなる17世紀後半には、入学が許可された学生の数は劇的に減少し、教育の質も落ちた。18世紀半ばになると、アカデミー当局はアカデミーを復活させようと努めた。例えば、1753年には Tomasz Żebrowski によって、ポーランド・リトアニア共和国で最初の天文台が作られている。これはヨーロッパでも4番目に古い専門施設である。イエズス会の制度が衰退し1773年にはイエズス会が廃止されたため、その年には世界で最初の文部省とも言える国民教育委員会(ポーランド語: Komisja Edukacji Narodowej)がアカデミーを監督するようになり、その結果アカデミーは近代的な大学へと変革していった。
1795年にポーランド・リトアニア共和国が分割される(いわゆる第三次ポーランド分割)と、ヴィリニュスはロシア帝国領となり、1803年、ロシア皇帝のアレクサンドル1世が新法令を承諾し、アカデミーをヴィルナ帝国大学(ロシア語: Императорскiй Виленскiй Университетъ)に名称変更した。ヴィルナ帝国大学は栄え、ヨーロッパで最も大きな大学の一つとなった。当時、学生数でもオックスフォード大学を凌いでいた。しかし1823年、ロシア皇帝に対する陰謀を理由に学生の多くが逮捕された(秘密結社 Filomaci のメンバー)。後に詩人として有名になるアダム・ミツキェヴィチもこのとき逮捕されている。1832年に11月蜂起が起こると、大学はニコライ1世によって閉鎖され、大学にあった財産の多くが没収され、サンクトペテルブルクなどに送られた。
1918年2月16日、リトアニア評議会(タリーバ)は独立を宣言。その後も混迷した状況は続き、大学は1918年から1919年にかけて3度にわたって別々の権力によって再開校された。
1920年10月12日に中部リトアニア共和国が建国され、1922年、ヴィリニュス地域はポーランドに編入された。ヴィリニュス地域がポーランドに占領されているあいだ、リトアニア人教員は臨時首都のカウナスに移り、ヴィータウタス・マグヌス大学にて教鞭を振るった。しかし、大学にはチェスワフ・ミウォシュ、 Władysław Tatarkiewicz 、 Marian Zdziechowski といった著名な科学者が在籍していたため、大学はすぐに国際的な評判を取り戻した。当時の大学には、後にノーベル文学賞を受賞するチェスワフ・ミウォシュも学生として法学部に在籍していた。ポーランド政府からの補助金や個人からの寄付金により、大学はすぐに発展していった。当時大学図書館には歴史的所蔵品や地図などを含む60万冊が所蔵されており、これらは現在でも保存されている。
ナチス・ドイツ軍によるポーランド侵攻(1939年)により、大学での教育は中止に追い込まれた。その後すぐにヴィリニュスはソヴィエト連邦に占領された。交戦状態が収束すると、教員の多くが大学に戻り、1939年10月1日、大学が再開校された。10月28日、ヴィリニュス地域はリトアニア共和国に編入された。1939年12月15日、リトアニア当局は大学を閉鎖、教員と学生約3,000名は解散を命じられた。その後すぐリトアニアはソヴィエト連邦に編入され、ポーランド人教員は再度教壇に立つことが認められた一方で、リトアニア人を含む他の教員の多くが「反動主義者」であることを理由に逮捕され、刑務所に入れられたりロシアカザフスタンの強制労働収容所(グラグ)へと送られるなどした。1939年9月から1941年7月にかけて、ソヴィエト当局は19名のポーランド人教員および元教員を逮捕、追放し、そのうち9名を殺害した。
1941年7月、ヴィリニュスはドイツ軍に占領され、ポーランド人向けの高等教育機関はすべて閉鎖された。
第二次世界大戦後、ソヴィエト連邦の制度のもとで抑圧されていたものの、ヴィリニュス大学は発展を遂げ、またリトアニアのアイデンティティを育んでいった。1988年、グラスノスチ政策により、ヴィリニュス大学はソヴィエトのイデオロギーから離れ、自由な活動を始めた。1990年3月11日、リトアニアが独立回復を宣言すると、ヴィリニュス大学は自治権を取り戻した。
「メイン・キャンパス」・wikipedia-photo、「メイン・キャンパス校庭にある教会」・wikipedia-photo、「100リタス紙幣に描かれているヴィリニュス大学のメイン・キャンパス」・wikipedia-photo、ヴィリニュス大学校庭が描かれた絵画(1850年頃の作品)・wikipedia-photo、ヴィリニュス大学のキャンパス(19世紀)・wikipedia-photo、かつての天文台・wikipedia-photo、「メイン・キャンパスの建物の配置図」・wikipedia-photo、ホール(メイン・キャンパス)・wikipedia-photo、記念ベル(メイン・キャンパス)・wikipedia-photo、校章と校旗・wikipedia-photo、ヴィリニュス大学建学425周年記念1リタス硬貨(2004年)・wikipedia-photo  (wikipdia・ヴィリニュス大学より)]

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カメラ南南東方向がヴィリニュス大学メイン・キャンパス入口です。

ヴィリニュス大学メイン・キャンパスホールのストリートビューです。

カメラ位置はヴィリニュス大学メイン・キャンパス中庭で、カメラ北東方向が聖ヨハネ教会です。

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