聖殉教者教会(聖パラスケヴィ教会)

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聖殉教者教会(聖パラスケヴィ教会・St. Paraskeva Church)
[聖ニコラス正教会と同じく14世紀半ばに設立された教会だが、こちらの方が知名度が高い。理由は1705年の大北方戦争時にロシア皇帝ピョートル大帝が訪れたからだ。そういった歴史的に重要な教会でも、第二次世界大戦ソビエト連邦統治時代には荒廃し閉鎖されていたが、1990年にようやく正教会として認められている。  (「27日・旧市街の教会巡り5 : リトアニア首都ヴィリニュスで妄想」より)]

[聖パラスケヴィ教会は、ヴィリニュスにある正教会の教会です。聖パラスケヴィの最初の正教会の教会は、王子アルギルダス最初の妻・正教徒である王女マリア・ヴィテフスカの要望で建設され、その後、王女は1346年にそこに埋葬されました。伝説によると、教会は、異教の神、Ragutisの寺の敷地内に建てられました。この教会は1557年の火災で完全に焼失し、3年後に再建されたが、1611年に再び焼失しました。焼失後の建物は東方帰一教会に与えられましたが、1655年に、正教会の教区に戻され改装されました。
大北方戦争の間の1705年に、教会にロシア皇帝ピョートル大帝が訪れ、軍事的勝利のために教会で祈った。訪問中に皇帝がゴッドファーザーとなりアブラム・ペトロヴィチ・ガンニバルは洗礼を受けた。3年後、勝利した皇帝は聖パラスケヴィの教会に征服したスウェーデンの旗の一部を付与することを決めた。
1748年に、建物は再び焼失し、1795年に再建された。しかし、教会は徐々に衰退に陥り、次の40年の間に閉鎖となりました。
1864年に、ロシア帝国の地方政府の命令でロシアの建築家Nikolai Chaginによりネオ・ビザンティン建築で再建された。
教会は第二次世界大戦中に荒廃し、再び改装されましたが、スターリン政権は無神論を奉じ、教会の存続を認めませんでした。最初は、無神論博物館が開かれることになっていたが、最終的に教会は、リトアニアの民俗芸術のギャラリーになっていた。教会は1990年に正教会に戻され、翌年Metropolitan Khrisostomによって神聖宣言された。それ以来、生神女福音大聖堂(テオトコス大聖堂・Cathedral of the Theotokos)の補助教会となっています。]

[アブラハムは、コンスタンティノープルスルタンの宮廷で一年ほど働かされていました。当時、ロシア帝国は、ピョートル大帝の時代であり、トルコ駐在のロシア大使サバ・ラグジンスキー伯爵は、大帝のための“小さな賢いアフリカ人奴隷”を捜し求めていました。こうしたアフリカ人奴隷を持つことは、当時のヨーロッパの大国の宮廷ではひとつの慣習でした。アブラハムは“献上品”として選ばれ、ロシア大使は、スルタンの高官に賄賂を贈り、アブラハムをすぐに購入するとロシアの大帝のもとへ送りました。ピョートル大帝は非常に喜び、アブラハムにリトアニア・ヴィリニュスの正教会(聖殉教者教会)で洗礼を受けさせます。大帝自身がアブラハムのゴッドファザーになり、ゴッドマザーはポーランド女王が務めました。  (「ロシア帝国へ – エリトリア大使館 | About Eritrea」より)]

カメラ東南東方向が聖殉教者教会(聖パラスケヴィ教会)です。

聖殉教者教会(聖パラスケヴィ教会)門内のカメラです。

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