マーカーはゲティミナス城です。
ゲティミナス城
[リトアニアの首都ヴィリニュスの旧市街にあった城。14世紀に大公ゲディミナスがトラカイから同地に遷都した際に建設が始まったとされる。先に、丘の上に「上の城」が築かれ、16世紀頃までに「下の城」が完成した。19世紀に帝政ロシアにより大部分が破壊され、現在、ゲディミナス塔と呼ばれる監視塔の一つが残っている。ゲディミノ城。 (「ゲディミナス城 とは – コトバンク」より)]
[14世紀、大公ゲディミナスがトラカイからヴィリニュスに遷都した際に、城が築かれた場所です。19世紀に帝政ロシアによりその大部分が破壊され、現在は監視塔として使われていたゲディミナス塔のみが残っています。ここからは新市街と旧市街が一望できます。「下の城」と呼ばれる王宮は、大聖堂のある広場にあります。 (「ヴィリニュスとその近郊 | DTACリトアニア観光情報局」より)]
ゲディミナス
[ゲディミナス(Gediminas, 1275年 – 1341年)は、中世リトアニア大公国の君主、リトアニア大公(在位:1316年 – 1341年)。これは主にリトアニア人とルーシ人の君主を意味していた。帝国としてのリトアニア大公国の実質的な創始者である。キリスト教化に抵抗した熱心な異教徒との評価があるが、実際はより複雑な事情があった。
ゲディミナスは原初の年代記の記述によってリトアニア大公ヴィテニスの馬丁と推定されていたが、現在ではヴィテヌスの弟でありブトヴィーダスの息子とおおむね考えられている。後世ではリューリク朝に由来する出自であると誤った説を立てられたこともあった。近年の研究においても、ゲディミナスの祖父の名は正確に判明していない。ゲディミナスは1316年に40歳で公位に就き、その治世は25年に渡った。
ゲディミナスは本来のリトアニアを始め、サモギティア、ナヴァフルダク、ポドラツィア、ポロツク、ミンスクといった広大な領土を相続した。しかしその周囲には積極的且つ貪欲な敵が取り巻いていたが、最も危険なのがドイツ騎士団とリヴォニア騎士団であった。騎士団のキリスト教への改宗を口実とするリトアニアへの組織的な侵攻は、全リトアニアの部族が共通の敵を目標にして統一された時から続く長きに渡るものであった。だがゲディミナスの王朝設立は単に安定性のみならず影響力の獲得にあり、その目的は教皇庁へ直接に使節を派遣することであらわれた。1322年末にゲディミナスがヨハンネス22世に送った手紙には、騎士団からの迫害に対する抵抗の懇願やフランシスコ修道会やドミニコ修道会がリトアニア国内で神の言葉を伝道するための特権を既に享受していることが知らされ、教会内の特使を送るよう懇願していた。1325年にドイツ騎士団は教会の非難を無視してゲディミナスとの戦争を再開した。その間ゲディミナスは、ポーランド王ヴワディスワフ1世短身王の息子であるカジミェシュ3世に娘アルドナを嫁がせることで同盟を結んで状況を改善している。
ゲディミナスの国内統治は賢君として留めている。正教会の修道士と同じくカトリックの修道士を保護し、リトアニアの軍隊の水準を効果的且つ達成的にまで上げ、防壁の輪で国土を守り、首都となるヴィリュニスを含む都市に多くの城を建てている。最初は首都は新しく建てたトラカイだったが、1323年に永遠の首都となるヴィリュニスを再建した。ゲディミナスは1341年に死去した(暗殺されたと推測されている)。 (wikipedia・ゲディミナスより)]
LNM 複合施設: 新旧の武器庫、ゲディミナス城の塔・wikipedia-photo
平面図 1・西塔(ゲディミナス城の塔)・wikipedia-photo
ゲティミナス城 1740年平面図
1・西塔、 2・サザンタワー(土台が残っている)、3・宮殿(遺跡が残っている)、低城:4・ゲイツと都市への架け橋(Piliesストリート)、5・ティルト通りへの道路や橋、6・大聖堂、7・最高裁裁判所の宮殿、8・司教の宮殿、9・王宮、10・宮殿の庭園、11・18世紀後半以来のアーセナル(兵器庫)で現在は博物館、 12・アーセナルの北東塔と門、13・アーセナルの庭
ゲティミナス城の鳥瞰カメラです。
2019年の鳥瞰カメラです。
カメラ位置はゲティミナス城砦で、カメラ西北西方向のゲティミナス塔は1409年に構築され、第二次世界大戦後復元されたリトアニア・ヴィリニュスの歴史的シンボルです。また、カメラ東北東方向にサザンタワーの土台が残っています。
カメラ東方向がアッパー城の宮殿遺構で、カメラ西南西方向にゲティミナス塔があります。
ゲティミナス塔上のカメラです。