ふじ大山道

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    ふじ大山道についてwikikpediaには下記の記述がされています。
    『現在の東京都練馬区から大山へ向かうものである。
    富士山への参詣者も通ったため「ふじ大山道」と呼ばれ、それが明治期に入って「富士街道」の名で呼ばれるようになったものである。東京都練馬区北町1丁目の旧川越街道とふじ大山道の分岐点に、1753年(宝暦3年)下練馬村講中により「ふじ大山道 田なしへ 三里 府中江 五里」と陰刻された道標が建立されており、練馬区指定文化財となっている。
    ●経路:川越街道下練馬村(東京都練馬区北町1丁目付近) – 田無(西東京市)- 別記[注釈 2] – 押立の渡し[注釈 3] (多摩川) – 長沼(稲城市) – 図師(町田市)- 府中通り大山道を経て大山へ
    [注釈 2] 田無 – 押立の渡し間は、千川上水を柳橋で渡り武蔵境駅方面へ向かったという説と、この説の道ができたのは明治以降であり、江戸時代には西武新宿線西武柳沢駅西側にある六角地蔵石幢から南へ向かう榎ノ木通り、深大寺街道、大師道(途中、境浄水場で中断)を通ったのではないかという説がある。また、途中の調布飛行場で道が消滅している部分があるといわれる。
    [注釈 3]多摩川の渡しは、押立の他、是政、関戸、一ノ宮、万願寺、日野などが利用され、一定していない。』

    上記と「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」を参考に歩けるルートを設定し、「Google Earthで街並み散歩を(江戸編)」で取り上げた個所を表示してみました。

    ここでのふじ大山道は「川越街道下練馬村 – 押立の渡し間」のルートを設定してみたいと思います。
    起点は志村の一里塚としました。志村の一里塚から中山道を北上し、次の志村坂上交差点から旧中山道に入り、志村清水坂方向に進みます、志村清水坂坂上に「ふじ大山道の追分」があり、ふじ大山道の追分碑左の道を西に向かいます。ふじ大山道を進むと旧道が途切れますので、突き当りのT字を左折して城山通りに出て志村二丁目交差点の次の信号のある交差点で右折して旧道に入ります。志村熊野神社(志村城跡)前を通り、首都高速5号池袋線下を潜り志村第二公園南側に出ます。ここに富士・大山道が出井川をわたった当所に、石橋の新築を記念して建立された「庚申塔道標」があります。
    庚申塔道標前を西に向かい、すぐの突き当りを左折、先にある二又の左、次の二又の右を進むと「子育地蔵尊祠」があります。祠にある子育地蔵や馬頭観音に大山道の刻銘があり、それぞれ、「右練馬道五町」「西ふじ大山練馬道」「右大山道」と刻銘され、祠右の道が大山道であることを示しています。
    子育地蔵尊祠右の道を進むと、突き当りに中台稲荷神社があり、そこを左折しセブン・イレブン前を西に進み、突き当りを左折、角地を左折し、直ぐのT字を左折し坂を下ると、富士見街道に出ます。そこを右折すると「かみなか庚申塔」があります。この庚申塔も道標になっていて「左 ねりま 大山みち」と刻銘されていますので、左道(富士見街道)を進みます。次の二又の右を進み、東部東上線踏切を横断し進むと、下練馬宿の入口を示す「三叉の馬頭観音」があります。この交差点の南西方向道路を進むと、旧川越街道に出ます。ここを右折すると、その先左に「川越街道下練馬宿案内板」があります。その前を進むと環八通りに出ます、環八通りは旧川越街道の下をトンネルで潜っていますので、旧川越街道周辺は緑地帯になっていて、旧川越街道南側歩道サイドに、wikipedia記述の「下練馬の大山道道標」が、元の位置から8メートルほど西側に移動し、向きも変わって設置されています。ここがwikipedia記述の起点です。
    「下練馬の大山道道標」から環八通り東側道路を進み、次の二又の左旧道を進みます。川越街道は直進できませんので、一旦環八通り東側道路に出て迂回し、次の十字路を右折して環八通り東側道路に出て旧道は一旦終わります。
    環八通り東側道路をひたすら南西方向に進み、練馬区春日町トンネルの最初の信号で、西側道路に渡ります。渡った先に「一里塚子育地蔵尊・「ふじ大山道」の道標」があります。環八通り西側道路を進むと、二又があります、旧道です、東京都道441号池袋谷原線の単独道路になります。旧道を進むと、永享9年(1437)創立の愛染院総門前に出ます。総門前西側に「ふじ大山道碑(春日町)」が設置され、参道左に練馬大根碑があります。さらに旧道を進むと、高松駐在所交差点先の十字路北西角に「庚申塔」があます。さらに600mほど進むと、二又に「谷原延命地蔵」があり、「左 たなし道 大山道 二里」と刻銘されていますので、左の道を進み、300mほど行くと南西角に「練馬区谷原1-9 馬頭観音」があり、その80m先交差点の北西角に「練馬区谷原1-11 馬頭観音」があります。
    谷原交差点を横断し、富士街道を進みます、西武池袋線高架先十字路北東角に「下練馬の大山道道標」から二里目の「一里塚」があり、その先子育地蔵遊び場には元禄十年(1681)造立の「子育地蔵尊」が祀られ、遊び場前には「大山街道」の説明板が設置されています。
    石井学園前交差点南東角に上石神井村の小名のついた「沼辺地蔵」があり、その先旧早稲田通り終点先の二又に宝永3年(1706) 造立の「道しるべ地蔵尊(ふじ大山道・所沢道)」があります。
    さらに富士街道を進み、新青梅街道を横断、伏見通りを迂回横断して進むと、西武柳沢駅東交差点北二又先に「西武柳沢駅東庚申塔・廻國塔」があり、西武柳沢駅を過ぎると榎ノ木通りとの交差点南西角に「六角地蔵石幢」があります。六角地蔵石幢は富士街道と深大寺道とが交差する所に建ち、榎ノ木通りは深大寺道で、六角地蔵石幢右の通りを進み西武新宿線踏切りを渡り、青梅街道を渡ると深大寺街道になります。
    深大寺街道を南下し、石神井川を境橋で渡り進むと、「馬頭観音文字塔」がありさらに進むと武蔵野大学前交差点(五日市街道)に出ます。この交差点に千川上水に架かる井口橋があり、傍らに「石橋供養塔」があります。また、五日市街道から上保谷新田に入る道(鈴木街道)の入口に、天明4年(1784年)の「文字庚申塔」があります。武蔵野大学前交差点から五日市街道を東に進み、大師通り交差点で右折して大師通りを南下します。この交差点北東に明治の初め、玉川上水沿岸、武蔵野12ヵ新田の農民たちの上に起きた悲痛な事件を刻む「御門訴事件記念碑」があります。
    大師通りは境浄水場で遮られますので、迂回して玉川上水を大橋でわたります。大橋から南下して新武蔵境通りに出ます。新武蔵境通りを進むと、途中三鷹市塚交差点西側に井口大鷲神社があり、三鷹市野崎交差点先右側に野崎八幡社があります。神代植物公園前を通り、深大寺入り口交差点んを抜け、野川を御塔坂橋(おとざかばし)で渡ると御塔坂橋南交差点です。今昔マップで見ると、ここに接続する石原小通りが古道になります、この道を進むことにします。この道を進み甲州街道を抜け、旧甲州街道にでます。この交差点南に武蔵国国司蔵宗の乱の時深大寺とともに逆賊降伏の修法の念仏道場としてさかえたとされる常演寺があり、交差点を右折して進むと道路南側に源正寺があります、源正寺会館西側の道に入り、京王線踏切を渡り、旧品川みちを抜けると品川通りに出ます、品川通りを渡ると、この道は若宮八幡通りとなります。延宝4年(1676)以前の創建と伝えられる上石原若宮八幡前を通り進むと、多摩川堤通りにぶつかりますので、ここを右折して進むと押立宮の前公園入口前の歩道境植え込みに「押立渡し碑」があります。