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玉川上水(三田上水分水口)、三田用水(山谷橋跡)、三田用水(山下口分水跡)、三田用水(御馬橋跡)、三田用水(三角橋跡、渋ケ谷口分水跡)、三田用水(東大駒場正門)、三田用水(駒場橋跡・駒場農学校正門)、三田用水(二ツ橋跡)、三田用水(神山口分水跡)、三田用水(帝国大学農科大学正門)、三田用水(駒場橋跡、駒場口分水跡)、三田用水(大坂口分水跡)、三田用水(中川口分水跡)、三田用水(西郷山公園北口前)、三田用水(鉢山口分水跡)、三田用水(猿楽口分水跡)、目切坂(目黒元富士跡、地蔵・道しるべ)、三田用水(鎗ヶ崎掛樋跡)、別所坂(目黒新富士跡)、目黒火薬製造所跡(現防衛省防衛研究所)、三田用水跡(茶屋坂トンネル跡)、茶屋坂(爺々が茶屋跡)、三田用水跡碑(銭瓶窪口分水跡)、島原藩松平家抱屋敷跡(目黒千代の池跡案内板)、三田用水普通水利組合事務所跡、三田用水(目黒駅)、三田用水(鳥久保口分水跡)、三田用水(妙円寺脇口分水跡)、三田用水(今里橋跡)、三田用水(久留島上口分水跡)、三田用水路跡(白金台3丁目遺構)、三田用水(流末)跡ルート、久留島上口分水(上・下大崎村、北品川宿)跡ルート
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
[起源は江戸の六上水のひとつである三田上水であり、1664年(寛文4年)に開削され、玉川上水を下北沢村から分水して、代々木・渋谷・目黒・大崎・白金付近まで開渠で導き、伏樋で伊皿子・三田まで給水した。中村八郎右衛門・磯野助六の両名によって開かれたといわれている。1722年(享保7年)に三田上水は廃止(室鳩巣の根拠のない意見書とされる。)になったものの、分水を農業に用いていた周辺農村の願い出により、1724年(享保9年)に三田用水として再開され、世田谷・麻布などの十四ヶ村に給水した。周辺の村では、これを基に開墾が進み、互いの調整を図った。
明治時代に入ると、この水を利用した水車小屋が見られるようになり、さらに海軍火薬工場の動力として使用された時期もあった。1890年(明治23年)、水利利用組合が結成。豊富な水利に着目して現在の恵比寿ガーデンプレイスの地にヱビスビールを製造する日本麦酒(後に大日本麦酒に合併)の工場が開設されたのもこの時期である。開設当時は、工場と地域農民との間で水利をめぐるトラブルもあった。
20世紀に入り周辺の市街化が進むと灌漑用水としての利用は失われ、さらに電気の普及もあり動力としての利用も減少していった。宅地化の過程において、付近の子供の遊び場ともなっていた旨の記載がある史料も残されている。1929年(昭和4年)以降、大日本麦酒の負担があり、水路の暗渠化が進められ、並行する道路の拡幅用地にされた。
戦後は、更に利用の減少が進み、1952年(昭和27年)に普通水利組合が解散。1974年(昭和49年)、三田用水は廃止された。 (wikipedia・三田用水より)]
[江戸時代を通じて江戸は何度も大火に見舞われたが、上水が火災の原因には到底なり得ず、室鳩巣の主張は根拠のない意見書である。
この時代は 8 代将軍徳川吉宗が主導した「享保の改革」が行われており、幕府の財政難を解消するため、積極的な新田開発が進められていた。幕府の天領が多かった武蔵野地方の新田の用水路として玉川上水が分水されていた。そのため、玉川上水の分水であった青山・三田・千川の三上水の給水量は玉川上水の分水の増加により減少していた事実があったことが知られている。幕府は政策の断行のため事業をスリム化する必要があり、建前として根拠の無い室鳩巣の建議を持ち出したに過ぎないと考えられている。 (wikipedia・江戸の六上水より)]