三田用水(鎗ヶ崎掛樋跡)

マーカーは三田用水(鎗ヶ崎掛樋跡)です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

三田用水(鎗ヶ崎掛樋跡)
[「目黒の川と用水・坂の今昔」目黒区立八雲中央図書館・H20/03/31・編/刊 pp.11・12の「新道坂」の項によれば、馬引澤道が
「あまりにも急な坂だったので、明治の終わりごろに、この坂の途中から分かれて、今の恵比寿駅や広尾方面に通じる勾配(こうばい)の緩やかな切通しの坂道を造りました。そのために三田用水の水路の下をくぐるしゃれた煉瓦(れんが)造りのトンネルを掘りました。このトンネルのある坂道を、新しく造つた道ですから、新道坂と呼びました。ところが大正の末に明治通りの渋谷橋から中目黒まで玉川電車(のちの都電・開業1927年(昭和2年)3月29日)を通すために、傾斜の更に緩やかな切通しの広い坂道を造つたとき、トンネルは廃道になり、新道坂は坂上部分を失つて途中から駒沢通りの大きな坂につながれたので、元の坂とはすっかり違つた坂になりました。そのため今では駒沢通りの大きな坂を新道坂と呼ぶことにしたのです。」  (「三田用水:坂口分水」より)]

[玉電中目黒線の開業当時、【下通5丁目】はまだ無く、手前の槍ヶ崎交差点に【槍ヶ崎】がありました。その交差点から目黒川への低地に向かって立つと、ここが尾根状の台地の突端部分という立地がよくわかり、槍ヶ崎という地名にも自然と頷けるようになります。駒沢通りは、槍のような突端部の一部を明治期に切り崩して造られた道路で、玉電敷設時に道路拡張が行われました。当時、ここには三田用水が南北に通じていましたが、駒沢通りの開通後、用水は水路橋で交差点上空を南北に跨いでいました。そのため、新道坂を上ってきた電車が水路橋をくぐる姿は、都電名所のひとつでもありましたが、都電廃止(1967年(昭和42年)12月9日)後の昭和49年に三田用水は廃止され、水路橋もその後に撤去(昭和57年(1982年))されました。  (「歩いて完乗 あの頃の都電41路線散策記 : 恵比寿駅前 – livedoor Blog」より)]

「前の写真 – 昭和毎日:池田信『1960年代の東京』 路面電車が走る水の都」(鎗ヶ崎交差点から見た三田用水の掛樋。)

目切坂 – 鎗ヶ崎掛樋・三田用水路平面図(玉川上水系に関わる用水路網の環境調査 P-351より)

写真は昭和60年修正空中写真で、中央・駒沢通り上に掛樋が写っています。

カメラ位置は三田用水(鎗ヶ崎掛樋跡)付近で、三田用水はカメラ南南東方向に流れていたようです。