三橋

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三橋
[上野広小路三橋遺構は、都道中央通り(上野広小路)に建設中の台東区営地下駐車場工事地内における発掘調査により、平成17年度に発見された石組水路です。江戸時代には寛永寺の参道に続く下谷広小路にかかる遺構で、西側の不忍池から広小路を横切るように水路(忍川)が砂層を分断して東へ流れていました。川には三つの橋(中央に将軍が寛永寺に参詣する時に使用する大橋、左右に一般用の小橋)が架けられていて、三橋と呼ばれていました。下谷広小路は、ほぼ現在の都道中央通りとなっており、本遺構は三橋に関係するものと考えられます。
 石組水路は明治に暗渠となっていたようですが、昭和五年の地下鉄銀座線に分断されて廃棄された後には、コンクリート管が埋められましたが、遺構部分は良好に残されていました。水路は一度改築されて約80センチメートル浅くなり、さらに途中から南側に折れ曲がります。当初の深い部分において上幅3メートル、下幅1メートル、高さ3メートルあり、石垣は間知石を積み上げ、底面の砂層の上には長さ450、幅40、厚さ10センチメートルの板材を組み合わせて敷いています。構築は十七世紀中頃、改築は十七世紀後半から十八世紀前半頃と推測され、改築は参道が広小路として拡幅されたことと関連すると思われます。画像リンク  台東区教育委員会 平成19年3月登載 (「台東区ホームページ」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(絵図中上・寛永寺境内左端に三橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「十四之二 [3] – 2/3、3/3」(絵図中左の東叡山左広小路に三橋が描かれています。)、「十四[206] – 167/266」(左ページ中央に三橋が描かれています。)

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「東叡山黒門前忍川三橋」(14-23)
東叡山黒門前忍川三橋(拡大図)

[絵図は『江戸名所図会』の「忍川・三橋」の挿絵です。今の上野公園南側入口前の広場になります。絵の左下に「不忍池」が描かれています。池から流れ出た水が広場を横切っています。「忍川」です。「忍川」に三つの橋が並んで架けられています。幅の広い橋が真ん中にあり、その両側に幅が半分ぐらいの橋が架かっています。真ん中の橋は徳川将軍家江戸幕府菩提寺だった寛永寺(現在の上野公園は寛永寺の境内でした)に参詣するときに渡る橋で、将軍以外は渡ることが出来ませんでした。普段、一般の人々は両側の橋を渡ったそうです。三つの橋が並んで架けられていたことから「三橋」と言われていました。今、広場に面して「みはし」という甘味処のお店がありますが、この「三橋」からとられた店名なのではないでしょうか。
 この「忍川」が広場を横切った先の南側(絵図の右端)は、上野町二丁目という町屋でした。その上野町一・二丁目(現・台東区上野四丁目)の『沽券絵図』を見ますと、町の北端を流れる「忍川」のところに「御公儀下水」と書かれています。「御公儀下水」という言葉は他でも使われています。「御公儀」とは幕府のことですから「御公儀下水」というのは幕府の土地にある「下水道」ということだと思います。「忍川」は町地や武家屋敷地から流される下水を集める役割を果たしていたのです。川が「下水道」の役割を果たしていた所は他にもあります。江戸の「下水道」には、屎尿(糞尿)を取り込みませんでしたから、下水はそれほど汚れてはいませんでした(屎尿は近郊農村で肥料に使われました)。
 この「忍川」は、図の右手(東)へ流れ、一度鉤の手に曲がりますが、ほぼ東へ流れ、武家屋敷地の中を流れて、今の台東区東上野一丁目辺りにあった大名屋敷(筑後国〈現・福岡県柳川藩立花家)を囲んでいた堀につながっていました。その先は、南隣(現・台東区台東三・四丁目)の大名屋敷(出羽国〈現・秋田県久保田藩佐竹家)の堀にもつながり、そこから今の台東区小島一・二丁目にあった「三味線堀」につながっていました。そこから先は「鳥越川」といわれ、東へ流れて、途中で浅草の方から流れて来た「新堀川」と合流して、隅田川に流れ出ていました。
 「忍川」は明治末期から大正初期にかけて埋め立てられ暗渠となったと言われておりましたが、台東区営地下駐車場工事の際、「忍川」両岸の石垣が掘り起こされました。当時の新聞記事(平成17年4月4日)によりますと、かなり立派な石垣だったようです。  (「ニュース東京の下水道No227_5 – 東京都下水道局」より)]

名所江戸百景[歌川(安藤)広重](上野山志た・wikipedia-photo)

カメラ位置は三橋が架かっていた付近で、カメラ東南東方向・アメ横センタービルに向かって忍川が流れていた。