寒松院跡(藤堂家の墓所)

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寒松院跡(藤堂家の墓所)
[藤堂高虎公は現在の上野動物園から東照宮にかけた場所に下屋敷があった大名であり、家康公を祀る上野東照宮が建立されたときに、江戸市民が参詣する際の便を図って屋敷地を献上しました。同時に寒松院を東照宮の別当寺として建立したのです。寛永4年(1627)のことでした。その後、寒松院をはじめとする寛永寺の諸堂は、明治元年(1868)戊辰戦争の際に彰義隊の立てこもりにより、多くが焼失しました。跡地は上野公園となり、寒松院は明治21年(1888)現在の寛永寺の裏手に、境内360余坪の寺院として移りました。しかし昭和20年(1945)には太平洋戦争の戦火に遭い再び焼失、現在の場所で再建され、今日にいたっています。ちなみに高虎公の霊は、上野動物園の旧正門を入って正面、石塀をめぐらせた一角に藤堂家の墓所(非公開)があり、その中央に眠っています。また、一説によれば「上野」という地名も、高虎公の城地である伊賀上野からつけられたと言われています。  (「天台宗 東京教区 – 教区の寺院 – 寒松院」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(絵図右上・寛永寺境内上に寒松院が描かれています。)

カメラ北西方向塀向こうが藤堂家の墓所です。

藤堂高虎
[藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名伊予国今治藩主。後に伊勢国津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れている。築城技術に長け、宇和島城今治城篠山城津城伊賀国上野城膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げる事との設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。
生涯
浅井家臣時代
弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄高則は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し、高虎が生まれた頃には一農民と変わらない状態になっていた。幼名を与吉と名乗った。
はじめ近江国の戦国大名浅井長政の家臣として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して武功を挙げ、長政から感状を受ける。天正元年(1573年)に小谷城の戦い浅井氏織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。
豊臣家臣時代
やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きせず、天正4年(1576年)に信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長(後の豊臣秀長)に仕えて3,000石の所領を与えられた。秀長のもとでは中国攻め賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで抜群の戦功を挙げたため、2,000石を加増された。後に秀吉から5,000石をさらに加増され、1万石の大名となる。
天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し、秀吉の命令で雑賀衆の首領であった鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられ、猿岡山城和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。また、方広寺大仏殿建設のための材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられていた。天正15年(1587年)の九州の役では根白坂の戦い島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて2万石に加増される。この頃、秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任する。
天正19年(1591年)に秀長が死去すると、甥で養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。文禄4年(1595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる。この時、秀吉から日本丸という軍艦を拝領したとされる。
慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦い鳴梁海戦にも参加し、帰国後に加増されて8万石となる。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・姜沆を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。
関ヶ原の戦い
慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去直前から徳川家康に急接近する。豊臣氏の家臣団が武断派文治派に分裂すると、高虎は武断派の諸将に先んじて徳川家康側に与した。
慶長5年(1600年)、家康による会津征伐に従軍し、その後の織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦する(岐阜城の戦い)。9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継隊と死闘を演じた。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に脇坂安治小川祐忠朽木元綱赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。戦後、これらの軍功により家康から宇和島領を含む今治20万石に加増されている。
江戸時代
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次改易と伊勢国津藩主・富田信高宇和島藩への転封今治周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国一国、並びに伊勢国8郡22万石に加増移封され、津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。
慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の藤堂良勝藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により32万石に加増され、同年閏6月には従四位下に昇任した。しかし、この戦いで独断専行を行った家臣の渡辺了と衝突、決別している。
高虎はこの戦いの戦没者供養のため、南禅寺三門を造営し、釈迦三尊像及び十六羅漢像を造営・安置している。梅原猛によれば、この釈迦如来像は岩座に坐し、宝冠をかぶった異形の像であり、高虎若しくは主君である徳川家康の威厳を象徴しているのではないかという(釈迦如来像は蓮華座に坐し飾りをつけないのが通例)。また、常光寺の居間の縁側で八尾の戦いの首実検を行ったため、縁側の板は後に廊下の天井に張り替えられ、血天井として現存している。
家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康没後は2代将軍・徳川秀忠に仕え、元和6年(1620年)に秀忠の5女・徳川和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという(およつ御寮人事件)。寛永4年(1627年)には自分の敷地内に上野東照宮を建立している。
一方で内政にも取り組み、上野城と津城の城下町建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で会津藩高松藩熊本藩の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。
晩年には眼病を患って失明している。寛永7年(1630年)10月5日に死去。享年75。後を長男の藤堂高次が継いだ。養子の藤堂高吉は高次の家臣として仕え、後に伊賀国名張に転封、分家を興した(名張藤堂家)。
墓は東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院。また、三重県津市高山神社に祀られている。屋敷は東京都千代田区神田和泉町他にあった(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。  (wikipedia・藤堂高虎より)]

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