慰霊碑 哀しみの東京大空襲

マーカーは慰霊碑 哀しみの東京大空襲です。

[慰霊碑 哀しみの東京大空襲
何の罪もない多くの人々が、戦時体制の下で悲惨な最期を遂げられたことを心から悼み、あらためてそのご冥福をお祈りすると共に、再びこうした悲劇が繰り返されないことを願って、この慰霊碑を建立する。
平成十七年(二〇〇五)年三月十日]

[ 哀しみの心をいつまでも
今年は昭和二十(一九四五)年の第二次世界大戦の終結からちょうど六十年、あの本所、深川を中心とした三月十日の「東京大空襲」も、次第に人々の記憶から薄れていこうとしています。
この年は、元旦早々B29が飛来して、浅草付近を空襲したのに始まり、一月だけでも百機を越える来襲があり、五百発もの爆弾と二千五百発もの焼夷弾が投下され、何の罪もない千五百余人の一般市民が死傷されました。
その後も東京は、実に数十回にも及ぶ空襲を受け、中でも三月九日の夜半から十日にかけての空襲は言葉に絶する程凄まじいものでした。
房総半島を経て飛来したB29 は、十日の午前零時八分から一斉に下町を襲いました。この日来襲したB29は三百二十五機といわれ、実に千七百トンもの高性能焼夷弾を投下したのです。
人々は隅田川や上野公園を目指して必死に逃げましたが、このたった二時間の間に、実に十万人以上もの方が犠牲になられたのです。
それは今想いだしても、本当の地獄図といえる程、悲惨な光景でした。
そして、翌日からこの上野の山には焦土と化した下町から夥しい数のご遺体が運ばれて来ました。この慰霊碑の付近の道端にも、米俵や筵を掛けられたご遺体が並べられたのです。
やがて、大八車やリヤカーを引いて、ご遺体を引き取りにみえる方もありましたが、多くのご遺体は身元不明のままでした。
そうしたご遺体は、この近くに巨大な穴を掘って、そこに仮埋葬され二年後に改めて掘り起こされ、荼毘に付されたうえ、本所横網町の震災記念堂にお祀りされました。
無論、こうした東京への空襲はその後も続きました。なかでも、この上野の山とその周辺が罹災した五月二十四日、二十五日の空襲は、凄まじいものでした。
今、終戦から六十年の歳月が経ち、こうした生々しい記憶が次第に薄れていきつつある時、下町の焦土化を見守り、そこでの無辜の犠牲者を暖かく迎えたこの上野の山に、私たちは心からの慰霊碑を建て、東京全域に亘る悲惨な犠牲者の霊を弔い、これからの日本を支えていく若い人々に、この「哀しみの心」を伝えていきたいと希っているのです。
平成十七(二〇〇五)年三月十日
海老名香葉子
建立有志一同]

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カメラ南東方向が慰霊碑 哀しみの東京大空襲です。