マーカーは本覚院です。
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本覚院
[天海僧正は、江戸時代初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師といいます。
天文5(1536)年に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれました。11歳で出家、14歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で諸教学を学んだといわれています。後に江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、喜多院(埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けました。元和2(1616)年家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、併せて、日光廟の基本的構想をたて造営を指導しました。その後も将軍徳川秀忠・家光の帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2(1625)年に寛永寺を創建しました。
寛永20(1643)年に子院の本覚院にて108歳で示寂しました。遺命により日光山に葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられました。後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになりました。 (「上野恩賜公園・天海僧正毛髪塔(台東区) |おすすめスポット|ピズモ …」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(絵図右上・寛永寺境内下の左端に移転前の本覚院が描かれています。)
カメラ西北西方向が本覚院山門です。
本覚院山門前の枝垂桜です。
天海
[天海(てんかい、天文5年(1536年)? – 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。天海の生年はっきりしていないが、100歳以上の長命であったことは確かであるとされる。
龍興寺にて随風と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。その後、蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされる。
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。これからは、天海が関東に赴いたのはそもそも家康のためであったことがうかがえる。
豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は天海が家康に用いられたのは慶長14年(1609年)からだとしている。この年、朝廷より権僧正の僧位を受けた。また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる。
元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した。天海が2代将軍となった徳川秀忠の諮問に対し明神は豊国大明神として豊臣秀吉に対して送られた神号であり、その後の豊臣氏滅亡を考えると不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮に改葬した。
その後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。
紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ている。これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。墓所は栃木県日光市輪王寺。 (wikipedia・天海より)]