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東京都美術館
[明治後期から大正にかけて日本の美術界では、美術館、特に明治以降の日本画や洋画など同時代の美術を展示する近代美術館の必要性が議論されていた。内国勧業博覧会の際に建てられた仮設の美術館などが展覧会に使用されていたが、設備は不十分なものであった。文部省による美術館建設の構想はあったが、予算不足のため頓挫していた。そうした折、北九州の石炭商・佐藤慶太郎から東京府に美術館の設立資金として建設資金の全額100万円(現在の32億円相当)を寄付する申し出があり、東京都美術館は「東京府美術館」として大正15(1926)年に日本で最初の公立美術館として開館した(岡田信一郎設計)。
府美術館の構想について画家・石井柏亭は、そのモデルとしてパリのグラン・パレのような巨大なギャラリー(展示場)を想定したが、建設資金を寄付した佐藤慶太郎の希望は古美術品の保護と作品の体系的な収集、それらを常設展示できる欧米型のミュージアムを志向していたという。一方で府の方針は、展示を本位とするギャラリーであった。そして政府による官展から在野の美術団体を問わず、芸術家の発表の場となっていき、当時はここに作品が飾られることが、芸術家として認められたこととなるような場であった。
1971年(昭和46年)に美術館に隣接する野球場に新館を建設することが決定した。そして1975年(昭和50年)に前川國男設計・大林組建設により総工費50億円の新館が完成した。
1975年(昭和50年)に竣工した前川國男設計の新館が築30年を超えたことから大規模改修工事が行われることになり、2010年(平成22年)4月5日より休館し、2年間の工期を経て、2012年(平成24年)4月1日に公募展示室、レストラン、ミュージアムショップ、美術情報室、アートラウンジなどがリニューアルオープンした。同年6月30日には企画展示室もリニューアルオープンし、これをもって全館リニューアルオープンとなった。リニューアルオープン記念として6月30日から開催された展覧会「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」は一日平均10,573人を動員し、2012年度に開かれた世界の美術館展覧会の最多を記録した。
入場ゲート・wikipedia-photo
ウィキメディアコモンズには、東京都美術館の画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・東京都美術館より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」(絵図右上・御本坊と寒松院の間が東京都美術館地になります。)
カメラ北方向が東京都美術館です。
東京都美術館入口前広場のカメラです。
東京都美術館展示ルームのカメラです。