東照宮

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東照宮
[上野東照宮(うえのとうしょうぐう)は、東京都台東区上野恩賜公園内にある神社。旧社格は府社。正式名称は東照宮であるが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれる。徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗徳川慶喜を祀る。(なお、御朱印には創建当初の御祭神「東照神君、天海僧正、藤堂高虎」の文字が見受けられる。)
歴史
寛永4年(1627年)、藤堂高虎上野の高虎の敷地内に創建した。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。
現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したもので、関東大震災第二次世界大戦でも消失を免れている。
社殿は平成21年(2009年)1月から平成25年(2013年)まで修復工事が行われ、平成26年(2014年)から公開されている。500円の拝観料で透塀内を見学できる。
施設
境内にはぼたん苑があり、4月上旬から5月上旬には「ぼたん祭」が開催される。
広島市内に落とされた原子爆弾により家々が炎に包まれた、その種火を上野東照宮境内にて大事に保存している。
文化財
重要文化財
●東照宮社殿 3棟1基
  ●本殿・幣殿・拝殿(合1棟)附:棟札4枚 慶安4年(1651年)
  ●唐門
  ●透塀
  ●石造明神鳥居 寛永10年(1633年)
  ●(附指定)銅燈籠 50基
●紫地葵紋付桐文散辻が花染胴服
大石鳥居・wikipedia-photo、参道から神門を見る(2010年10月26日撮影)・wikipedia-photo、神門(2010年10月26日撮影)・wikipedia-photo、神門から参道を見る(2010年10月26日撮影)・wikipedia-photo、銅燈籠・wikipedia-photo、拝殿と唐門・wikipedia-photo、唐門と透塀(拝殿側から見る)・wikipedia-photo、唐門(拝殿側から見る)・wikipedia-photo、拝殿・wikipedia-photo、幣殿と拝殿(南から)・wikipedia-photo、「手前より本殿、幣殿、拝殿(南から)」・wikipedia-photo、唐門の頭貫木鼻・wikipedia-photo、透塀の彫刻・wikipedia-photo  (wikipedia・上野東照宮より)]

上野東照宮【藤堂高虎の上屋敷
[元和2年(1616年)2月4日、見舞いの為に駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は、危篤の家康公の病床に呼ばれ神君より三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言をされた。そこで藤堂家の屋敷地であるこの上野の山に、寛永4年(1627)に東照宮を建立した。その後、寛永寺建立の際に藤堂高虎,酒井忠世土井利勝によって社殿が造営されたが、家光公は、この建物に満足出来ず、慶安4年(1651)、江戸の象徴、金色殿として改築した。  (『邸内社「江戸歴史散歩」』より)]

銅燈籠
[東照宮社殿唐門前と参道に、五十基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事法会を執行するとき浄火を目的とするもの。照明器具として用いない。浄火は神事・仏事に使用する清めた火。燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。火袋下部の長い部分を竿と言い、ここに銘文を刻むことが多い。 これらの銅燈籠は、諸国大名が東照大権現霊前に奉納した物。竿の部分には、寄進した大名の生命と官職名・奉納年が告示されている。それによると、伊勢国津藩主藤堂高虎奉献の寛永五年(1628)銘一基をはじめ、慶安四年(1651)正月十七日奉献二基。同年四月十七日奉献四十五基、同年孟夏十七日奉献二基となっている。慶安四年四月十七日東照宮社殿落慶の日の奉献数が最も多い。  (「江戸・東京歴史散歩ガイド – 銅燈籠」より)]

「広島・長崎の火」の由来
[1945年8月6日、9日、広島・長崎に人類最初の原子爆弾がアメリカによって投下され、一瞬にして10数万人の尊い生命が奪われ、辛くも助かった方々も被爆者としていまだに苦しんでいます。広島の惨禍を生き抜いた福岡県星野村(現八女市)の山本達雄さんは叔父の家の廃墟にくすぶっていた原爆の火を故郷に持ち帰り、「恨みの火」として密かに灯し続けました。しかし長い年月を経て「核兵器をなくし平和を願う火」として灯すようになりました。
 1988年3千万人の「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」署名とともに「広島の火」は長崎の原爆瓦から採った火と合わされ、ニューヨークの第3回国連軍縮特別総会に届けられました。
 同年4月「下町人間の会」の人々は、この火を東京上野の東照宮境内に灯し続けることを提唱。嵯峨敞全宮司の大きな賛同のもと、モニュメントの設置と火の維持管理のご協力がいただけることになりました。広範な人々の呼びかけによって、「上野東照宮境内に『広島・長崎の火』を灯す会」が結成され、1年あまり、数万人の草の根の運動と募金で1990年7月21日モニュメントが完成しました。
 被爆45周年の8月6日、星野村の「広島の火」と長崎原爆瓦から採火した「長崎の火」が「広島・長崎の火」としてモニュメントに点火されました。
 1991年2月、会の名に「永遠に」を加え、2007年1月に「上野の森に『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」とし、活動を続けています。
 2011年3月11日、東日本を襲った巨大な地震と津波によって東京電力福島第一原子力発電所が爆発、深刻な放射能汚染がひろがり、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニと被爆国だった日本は原発事故で加害国になってしまいました。緑の地球と危険な核は絶対に共存できません。私たちは「非核・平和」実現の誓いの火として、「広島・長崎の火」を子や孫につなぎ、灯しつづけます。  (「【「広島・長崎の火」の由来】 上野の森に「広島・長崎の火」を永遠に」より)]

上野東照宮公式ホームページ」 

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図

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カメラ西方向が東照宮水舎門で、カメラカメラ東方向が大石鳥居です。

東照宮案内板前のカメラです。

カメラ北方向に「広島・長崎の火」モニュメントがあります。

東照宮中門前のカメラです。

東照宮拝殿前のカメラです。

銅燈籠前のカメラです。