伊勢亀山藩石川家上屋敷跡(箭弓稲荷神社(銀杏稲荷))

マーカーは箭弓稲荷神社(銀杏稲荷)です。

関連リンク – 亀山藩石川家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP515・コマ番号301/553から亀山藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 下谷御成道」がこの地になります。

箭弓稲荷神社(銀杏稲荷)
[当社の具体的な創建時期などは不明となるが、元々、石川主殿頭成之の屋敷内に鎮座し、徳川家光公より銀杏の木を拝領したことから銀杏稲荷と呼ばれていたという。その後、明治初期には、当地は民家になり、神社も放置されてしまうが、松山治郎吉という者が、武州松山箭弓稲荷神社より御分霊勧請し、御祀りしたことから改めて、箭弓稲荷神社と改称したという。しかし、関東大震災により、一度、神社と御神木は焼失してしまうが、その御神木の一部より御神体と社殿木材を切り出し、再建し、昭和54年に修復され、現在に至る。  (「神社人 – 下谷箭弓稲荷神社」より)]

[箭弓稲荷神社(やきゅういなりじんじゃ)は、東京都台東区上野(黒門町)にある神社である。宗教法人ではない。
元来は、石川主殿頭の屋敷神であったが、徳川家光より銀杏を下賜されたことを機に”銀杏神社”と称されたという。明治に入り、埼玉県東松山市にある箭弓稲荷神社の分霊を勧請した。
神社には、桂文楽古今亭今輔ら古い芸人の名前のある額が掲げられている。 三遊亭円丈は当社の近くまで来ると参詣するといい、俳優の加山雄三テレビ朝日系の番組「若大将のゆうゆう散歩」で当社を訪れ紹介した。
商売繁盛のご利益があるとされている。  (wikipedia・箭弓稲荷神社_(台東区)より)]

伊勢亀山藩
[伊勢亀山藩(いせかめやまはん)は、伊勢国に存在した藩の一つ。藩庁は伊勢亀山城三重県亀山市)。
第2代藩主・板倉勝澄時代に板倉家石川総慶と交代する形で延享元年(1744年)3月1日、備中松山藩へ移封と、藩主家の交替が激しい土地であり、藩主の長期間における支配が定着しなかったが、石川総慶が6万石で入ってようやく藩主家の支配が定着した。ちなみに、この石川家は徳川家康から豊臣秀吉に主君を替えたことで有名な石川数正系統の石川家ではなく、数正の叔父・石川家成系統の石川家である。ただし、血統としては大久保家から養子にきている。
第4代藩主・石川総純は米の専売や荒地における検地を行なって藩財政再建を目指したが、これに反対する百姓一揆明和5年(1768年)に起こって改革は失敗した。第5代藩主・石川総博寛政2年(1790年)に藩校・明倫堂(のち明倫館に改称)を創設した。第10代藩主・石川総禄は洋式軍備の導入や茶の栽培奨励などを行なっている。
明治2年(1869年)の版籍奉還で、最後の藩主・石川成之知藩事に任じられる。  (wikipedia・伊勢亀山藩より)]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二[天保10(1839)年]」[絵図中央下、左に石川日向守(石川総紀)と記述されています。]

東京都立図書館アーカイブ – 東都下谷絵図(嘉永4[1851]/文久2[1862]改正)」[絵図四つ切左上に石川主殿頭(石川総禄)上屋敷が描かれています。]

箭弓稲荷神社 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は中央通り・台東区上野1丁目1南東交差点で、カメラ北西方向神田白山線・湯島中坂下交差点北側までと学問の道までが伊勢亀山藩石川家上屋敷跡になると思います。(伊勢亀山藩石川家上屋敷跡範囲:台東区上野1丁目1~14,16)

カメラ北方向が箭弓稲荷神社(銀杏稲荷)です。

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