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三つ橋跡案内板
[三つ橋跡 所在地
弾正橋 中央区京橋2・3丁目~八丁堀3・4丁目
白魚橋 中央区京橋3丁目~銀座1丁目
真福寺橋 中央区銀座1丁目~新富1丁目
ここから北方約30メートルの地点には、明治の末年まで、北方から楓川、北西から京橋川、東へ流れる桜川、南西へ流れる三十間堀川が交差していました。この交差点に近い楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が架かり、この三橋を三つ橋と総称していました。三つ橋は、すでに寛永9年(1632)作成と言われる『武州豊嶋郡江戸庄図』に図示されていますが、橋名の記入はなく、橋名についても幕末までいろいろ変遷がありました。
明治末に真福寺橋、昭和34年に白魚橋がいずれも河川の埋め立てによって廃止され、弾正橋は昭和37年、高速道路工事によって現在の姿となりました。 平成8年3月 中央区教育委員会 案内板画像リンクより]
[◆『江戸名所図会』には次のように記されている。
三ツ橋(みつはし)―― 一つのところに橋を三所架(わた)せしゆゑに、しか呼べり。北八町堀より本材木(ほんざいもく)町八丁目へ渡るを、弾正橋(だんじょうばし)と呼び(寛永(1624-44)のころ、いまの松屋町の角(すみ)に、島田弾正少弼(しまだだんじょうのしょうひつ)やしきありしゆゑといふ)、本材木町より白魚屋敷(しらうおやしき)へ渡るを、牛の草橋といふ。また、白魚屋敷より南八町堀へ架するのを、真福寺橋(しんぷくじばし)と号(なづ)くるなり。
「三ツ橋」挿絵には、次の添句が記載されている。
『風羅袖日記』 八丁堀にて
菊の花さくや石屋の石の間 芭蕉 (「八丁堀周辺 歴史案内〈湊・入船・新富〉 – nifty」より)]
白魚屋敷
[小網町の漁師たちが、徳川家康入国後葛西方面へ出かけた時網をひいて見せ、肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得、外濠内での夜猟のあと明け方引きあげてくると、小網町1丁目の町角に網を一張干しておくのが慣例だったといいます。
享保になって白魚屋敷を拝領したのも、ここの漁師達の子孫で、佃島の人達とは別な特典をもっていたといわれています。(「管園心おぼえ」より) (「日本橋小網町 | 日本橋“町”物語 | 東京都印刷工業組合 日本橋支部」より)]
「武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション(1624-1643・寛永年間」[絵図中央下に十本の船入堀が描かれ、日本橋と京橋の間の川が紅葉川で、紅葉川が接続する川が楓川です。楓川が左で接続する川が八丁堀で合流点に三つ橋が描かれています。]
「東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」[絵図四つ切左上・交差水路の楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に牛草橋(真福寺橋)が描かれています。]
「東京都立図書館アーカイブ – 築地八町堀日本橋南絵図(万延元[1860]改正)」(絵図中央・楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋、三十間堀に真福寺橋が描かれています。)
「京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・「bunko10_08631_p0002.jpg」(絵図下左方向・白魚橋、三十間堀に真福寺橋が描かれています。その右上に白魚屋敷と記述されています。)
「国際日本文化研究センター – 東京市京橋區全圖 : 明治四十(1907)年一月調査」(地図四つ切右上・三十間堀は埋められていますが、楓川に弾正橋、京橋川に白魚橋が描かれています。また、その左上金六町が白魚屋敷跡と思われます。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「三ッ橋」(2-28)、「三ッ橋解説・右ページ左」(2-27)
三ッ橋(拡大図)
[図会は北東方向から南東方向を描いています。右ページ下・楓川に架かる「弾正橋」、その上・京橋川に架かる「牛草橋(白魚橋)」、左ページに三十間堀に架かる「真福寺橋」が描かれています。]
狂歌江都名所図会 – 三ッ橋(拡大図)
カメラ北東方向に三つ橋跡案内板があります。また、カメラ位置付近周辺に白魚屋敷があったようです。