中津藩奥平家上屋敷跡

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奥平大膳大夫
[木挽町の南端には、豊前国福岡県中津藩主奥平大膳大夫の上屋敷があった。
 禄高は十万石である。この上屋敷は延宝の頃から引き続きこの地にあり、地所は現在の銀座八丁目九番地から二一番地にいたる全域を占め、維新後、逓信省の用地となったところ。正面は汐留川に面した河岸に開かれていた。
 河岸通りは将軍浜御成の時の通路でもある。浜奉行木村喜繁(※木村芥舟の祖父)の自筆日記『伊豆の山ふみ』の巻頭に、家族に見送られて旅に出る浜奉行一行の先頭が、一頭の駄馬を擁して、海鼠壁に添って河岸道を歩いていく図が載せてある。
 その海鼠壁に囲撓された一纏の大名屋敷が、すなわち奥平邸であった。  (「5.木挽町の名家 安藤菊二(PDFファイル:1086.52 KB)」より)]

中津藩奥平家
[中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後、播磨宍粟山崎から黒田孝高(如水)が入部し、12万3000石(一説には16万石)を領有した。その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった子の長政慶長5年(1600年)、筑前福岡藩に52万3100石で加増移封された。
代わって同年、同じく関ヶ原の戦いで東軍方に付いた細川忠興丹後宮津より39万9000石で入封し、江戸期の中津藩が成立した。忠興は慶長7年(1602年)、藩庁を小倉城に移して小倉藩となる。中津城は支城となり城代が置かれた。寛永9年(1632年)、第2代藩主・忠利肥後熊本藩に移封となった。
同年、播磨明石藩より小笠原忠真が小倉藩主として小倉城に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前中津城には忠真の甥・長次が播磨龍野藩より8万石で入封し、再び中津城が藩庁となった。元禄11年(1698年)、第3代藩主・長胤は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『徳川実紀』)により弟の長円が半減の4万石をもって跡を継いだ。享保元年(1716年)、第5代藩主・長邕が7歳で夭逝したため、その弟・長興が播磨安志藩(1万石)に移封立藩となった。
享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封した。以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・福岡県を経て大分県に編入された。1844年(弘化元年)、藩校進脩館』に小幡篤次郎が入門、明治4年に福沢諭吉の弟子となり、校長に就任。のちに『中津市学校』に改組され9代藩主・奥平昌邁と共に藩士らは江戸藩邸中屋敷の慶應義塾へ移った。
奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がいる。また、福沢とは親戚にあたる増田宋太郎の2名をして、郷土の英雄として位置付けられている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。  (wikipedia・中津藩より)]

御府内往還其外沿革図書. 七之二(文化五年・1808年)」[絵図中央左端に・奥平大膳太夫(奥平昌高)上屋敷が、中央下方向に中屋敷が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央左端上に奥平大膳太夫(奥平昌服)上屋敷が描かれ、絵図中央左下方向に中屋敷が描かれています。]

カメラ位置は海岸通り/木挽町通り交差点で、カメラ北東方向道路両サイド一画が中津藩奥平家上屋敷跡になります。