マーカーは伊予吉田藩伊達家上屋敷跡です。
関連リンク – 伊予吉田藩伊達家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP540・コマ番号314/553から吉田藩屋敷の変遷について記載されています。「一、上屋敷 南八丁堀」がこの地です。
[吉田藩伊達家の上屋敷については『藩邸沿革』に、
『上屋敷 南八丁堀
拝領万治元(1658)年月不詳。(※明暦の大火後と思われます。)
府内沿革図書、延宝(1673年-1681年)之頃、相引橋西之方伊達宮内少輔、新庄長門守屋敷有ㇾ之、両屋鋪西乃方道向南之方加々爪次郎右衛門、北之方松崎権右衛門屋敷ㇾ之、権右衛門屋敷は元禄十五(1702)年相対替ニテ伊達和泉守屋敷ニ成。次郎右衛門屋敷ハ宝暦三(1753)年同断ニテ伊達紀伊守屋敷二成。天保十四(1843)年八月地続牧野式部屋敷相対替ニテ伊達伊織一ト屋敷成。』
と記してある。 (「36.切絵図考証二三 安藤菊二(PDFファイル:1561.79 KB)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号40/147「延宝年中(1673年-1681年)之形」右ページ紀伊殿蔵屋敷右に伊達宮内少輔(伊達宗純)、新庄長門守、加々爪次郎右衛門、松崎権右衛門屋敷が描かれています。コマ番号41/147「宝永年中(1704年-1711年)之形」で松崎権右衛門屋敷が伊達和泉守(伊達村豊)屋敷になっています。コマ番号44/147「宝暦年中(1751年-1764年)之形」で加々爪次郎右衛門屋敷が伊達紀伊守屋敷になっています。コマ番号52/147「天保五(1834)年之形」で、紀伊殿蔵屋地が屋敷替えによって堀田相模守と牧野長門守屋敷地となっています。コマ番号53/147「安政三(1856)年之形」で牧野長門守屋敷地が伊達若狭守(伊達宗孝)屋敷地に取り込まれています。)
伊予吉田藩伊達家
[伊予吉田藩(いよよしだはん)は、宇和島藩の支藩。
明暦3年(1657年)7月21日、宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・宗純が本家より3万石を分知されて立藩した。三河国の吉田藩と区別するため伊予吉田藩と呼ばれた。藩庁として、現在の愛媛県宇和島市吉田町立間尻御殿内(旧北宇和郡吉田町)に伊予吉田陣屋が置かれた。この3万石分知の経緯については諸説ある。秀宗は宗純を寵愛しており、父・政宗が死去するまで支出していた隠居料3万石を宗純のために分知した、と一般に言われている。一方で、2人の兄が相次いで早逝するなかで世継となった三男・宗利を妬んだ宗純が、仙台藩の伊達宗勝(政宗の十男で秀宗の異母弟)と共謀し、秀宗の遺言書を偽造した、とも言われている。当時の秀宗の病状は悪く、筆を取るのもままならない状態であったとして、宗利は不審の念を呈する書簡を仙台藩第2代藩主・伊達忠宗に送っている。なお、宗勝は後の伊達騒動の首謀者として断罪されていることも一考に価する。結局、彦根藩主・井伊直孝の仲裁により3万石分知は果たされたが、吉田伊達家と宇和島宗家は領地の帰属を巡って激しく対立した。
両藩の確執は、元土佐藩浪人の身から吉田藩の家臣となり専横を奮った山田仲左衛門を巡る一件(山田騒動)に仙台伊達家の指示で宇和島藩が介入するまで続いた。以後、吉田藩に対する宇和島藩の発言権は大きくなった。第7代藩主・宗翰は宇和島藩主・村寿の子、第8代藩主・宗孝も宇和島藩主・宗城の実弟で、いずれも養子として藩主となっていることから、この事件を機に宇和島藩に従属し、支藩的扱いを受けていたと考えてよい。
享保の大飢饉では大被害を受け、2万7000石の損失があった。さらに幕府の公役負担などにより財政は苦しくなる。このため、吉田藩は重税を強いて、さらに製紙を専売化するなどしたが、このために寛政5年(1793年)2月に吉田藩最大の一揆である武左衛門一揆が起こり、藩は百姓の要求を受け入れて製紙の専売を取りやめた。寛政6年(1794年)11月13日には藩校・時観堂を創設し、森退堂を登用した。
幕末は第8代藩主・宗孝が実兄・宗城と不仲だったことから佐幕派として行動し、兄の仲介で新政府より許されている。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県の断行により、旧伊予吉田藩領を管下とする吉田県を設置された。 (wikipedia・伊予吉田藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央に伊達若狭守(伊達宗孝)上屋敷が描かれています。]
「東京都立図書館アーカイブ – 京橋南芝口橋築地鉄砲洲辺絵図(嘉永6[1853])」(絵図下中央右に伊達若狭守(伊達宗孝)と描かれています。)
カメラ北方向一帯が伊予吉田藩伊達家上屋敷跡になると思います。