佐久間象山住居跡

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マーカーは佐久間象山塾跡案内板です。

佐久間象山住居跡
[狩野画塾の筋向い、木挽町5丁目に、ほんの一時ではあるが、幕末の豪傑の一人、佐久間象山が居住していた。近吾堂版切絵図の左傍(かたわら)に、細字で書かれた「佐久間修理」は、すなわち象山の通称である。象山は信州国松代藩士であった。天保10年29才の時江戸遊学、神田お玉が池に住居し、生徒を集め、傍ら佐藤一斎の門に出入りした。13年、砲術師範江川太郎左衛門の門に入り、翌年には免許皆伝を受けている。弘化3年(1846)松代に帰り、藩命をもって野戦砲や大砲などを鋳造、砲術家として声望重きを加えた。嘉永3年(1850年)像山は出府して深川藩邸に仮寓(かぐう)することになった。諸藩士の砲術を聞く者多く、この年中津藩士73名が入門し、幕臣勝麟太郎(海舟)も入門した。翌嘉永4年、周旋(しゅうせん)してくれる人があって、象山は木挽町5丁目の借家に移転した。木挽町の塾は、象山個人の出入に好都合であったのみでなく、73人の中津藩士にとっても好都合であった。彼らの多くは象山の家を去る数町の藩邸、奥平大膳太夫の上屋敷か、鉄砲洲の中屋敷に起居(ききょ)していたからである。この年、長州藩吉田寅次郎(松蔭)が入門した。この年11月上旬、象山は上総国姉崎において、奥平候のために新鋳した大砲の試射を行い。大槻磐渓七言絶句を賦してその挙を讃した。嘉永5年(1852年)11月象山は勝麟太郎の妹順子を娶った。時に象山42才。順子は17才であった。安政元年(1854年)3月27日松陰のは下田に赴いて米艦に投ぜんとし果さず、雄図(ゆうと)空しく挫折して伝馬町の牢獄に下され、象山もまた、送別の詩から連累者として逮捕され、伝馬町の獄に呻吟(しんぎん)する身となった。牢獄にあること半歳、判決は下って蟄居を命ぜられ、象山は郷里松代へ護送されていった。象山が木挽町に住居していた期間は僅々(きんきん)三か年に過ぎなかったけれども、激動の時代に入った歴史の歯車は、この一小天地にも深刻なわだちの跡を印し去ったのである。  (「中央区立図書館 – 5.木挽町の名家 安藤菊二(PDFファイル:1086.52 KB)」より)]

佐久間象山住居跡資料リンク
京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」 – 「請求記号:文庫10_08631 4カット」(絵図左上・狩野勝川の上に「佐久間修理」が描かれています。)

佐久間象山塾跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向に佐久間象山塾跡案内板があります。

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