佐倉藩堀田家中(下)屋敷跡

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紀州家八丁堀蔵屋敷
[この邸地については東京市史稿巻九、所有の藩邸沿革や御府内沿革図書に記載されているが、『南紀徳川史』巻之百六十九に、
『御拝領年月詳しならざれ共、屋代弘賢が考案に係る寛永七、八年の間に新刻といえる江戸庄古図に左之如く見へたれば、既に此己前御蔵屋敷に御拝領なるべし。且万治四年之比小堀遠州作之石燈籠を、紀州より鯨舟にて御取寄せ、八町堀邸へ着岸、御中屋敷へ御牽(ひきよ)せ、酒井空印(酒井忠勝)へ御示しの事あれば、旁竜祖之御時御拝領の事明也。邸前之橋を紀伊国橋と称するは御家一手にて架橋によりかく称すと古くよりいひ伝えり。
・・・・・
此邸は元来御蔵屋敷にて、勢州よりの廻米を貯蔵す。また死刑ある時は当邸にて挙行したる由。其用に供したるか、司農府勤井上次郎作近時迄預りありしと聞伝へり。文政十二(1829)丑年三月廿一日神田佐久間町より出火、大火にて四方火に包まれ、御米蔵及御長屋共不残焼失、橋々流失詰人逃走の地なく四五名焚死す。同年六月二八日鉄砲洲築地堀田相模守(堀田正睦)中屋敷御拝領に付、為代地当邸の内七千弐百八拾四坪御差上、残地千三拾坪は文政十三(1830)年寅年二月十二日三方替地として山田奉行牧野長門守(牧野成文)へ譲渡。』
 右の記事によって、当邸が、竜祖=南竜公、紀州家初代徳川頼宣(一六〇二~一六七一)の時拝領したものなること、当邸に「江戸御仕入方」を設置したのは、ずっと年代が下って文政二年(1819)だったことなどが知られる。
 「江戸御仕入方」については、初め八丁堀に設置、後浜町に移り、安政三(1856)年四月深川小名木沢邸に転じ、同六(1859)年三月また深川万年橋邸に移転した。職員は若山から在勤し、国元仕出の木材・炭などの物品の販売、幕府納炭のことを管理し、兼ねて貸金利殖のことを謀るのが役目であった。
とも記していて、紀州和歌山藩にとっても木材と炭が最も大切な物産であり、特に「幕府納炭」のことを管理していたことなどは最も注目せられる。
 木材・炭以外にも紀州領国内の物産もまたこの蔵屋敷において入札によって江戸市中商人に売捌かれ、換金された。
 入札には、出入商人の、鉄砲洲の栖原角兵衛と、馬喰町の紙谷庄八とが入札差配人として立合った。
 文政九(1826)年一二月尾州家築地蔵屋敷で米のせり売りを開始し、これにならって紀州家でも文政一〇(1827)年六月四日八丁堀蔵屋敷で米穀切手払を開始し、一一(1828)年五月には同屋敷内に米のせりうり場を開いている。扶持米の積船延着の時買米をしたり、残り米払方のため、蔵屋敷に立会所を開いたのであるが、この米立会所は文政一四(1831)年(天保元年)二月八日、八丁堀から浜町に転じた。
 藩士数人の死者を出した文政一二年の佐久間町火事類焼後、六月廿八日、願の通り、築地南小田原町の堀田相模守中屋敷を拝領、代地として、八丁堀屋敷内七二八四坪を提供し、七月二〇日右の拝領屋敷を築地御屋敷と命名した。  (「35.切絵図考証二二 安藤菊二(PDFファイル:1098.79 KB)」より)]

国際日本文化研究センター – 武州豊島郡江戸庄図(寛永年間ヵ・1624-1643)」(絵図四つ切左下・紀伊国橋下に紀伊大納言様御蔵屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七之二(文化五年・1808年)」(絵図中央上に紀伊殿蔵屋敷、絵図下中央左に堀田相模守屋敷地が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号52/147「天保五(1834)年之形」右ページに堀田相模守(堀田正睦)、その右に牧野長門守(牧野成文)屋敷地が描かれています。コマ番号52/147「安政三年之形」で牧野長門守(牧野成文)屋敷地が伊達若狭守屋敷地に取り込まれています。コマ番号54/147「当時之形」に記述される堀田鴻之丞は正倫のことです。)

36.切絵図考証二三 安藤菊二(PDFファイル:1561.79 KB) – 木挽町一・二丁目(続)堀田鴻之丞

堀田正倫
[堀田 正倫(ほった まさとも)は、5代藩主で幕末老中下総国佐倉藩5代藩主堀田正睦の四男として誕生。安政6年(1859年)、父が井伊直弼との政争に敗れて失脚したため家督を譲られて藩主となった。幕府に対する忠誠心は父譲りなのか、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、徳川慶喜に対して朝廷から討伐令が下ると、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願したが、新政府から拒絶されただけでなく、京都に軟禁状態にされた。このため、藩主不在となった佐倉藩は危機を迎えたが、家老平野縫殿が新政府軍に与して大多喜藩に出兵したため、何とか改易は免れた。
明治維新後は知藩事となった。廃藩置県後は東京に移住し、日本の文化活動推進に貢献した。明治17年(1884年)に伯爵に叙される。明治23年(1890年)、佐倉に戻って私立の農事試験場設立や(旧制)佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)維持発展に寄与するなど地域の発展に尽力した。
農業振興
佐倉城は1873年(明治6年)に第一軍管東京鎮台佐倉分管となり、正倫は1889(明治22)年に佐倉城跡の東方、鹿島台地の縁辺部に本邸を新築し翌年夏より移り住んだ。敷地内には、母屋・茶室・蔵などの建物群と、それらを囲むように約2千400平方メートルの借景式の和洋折衷庭園が当時の有名庭師・珍珠園の伊藤彦右衛門によって造園された。1907年には士族授産事業の一環として庭の一部に「農事試験所」(現・佐倉市飯野地先)を作り、農業の振興に尽力した。1911年には、養子の堀田正恒北海道士幌にて農地開拓を行なって佐倉農場を開設し、北海道士幌町には「佐倉」という地区が今も遺る。
また、明治維新前に正倫が住んでいた江戸の大名屋敷(麻布下屋敷・麻布新笄町14、約5万坪)は、1871年(明治4年)に開拓使用地となり、渋谷村民有地3万坪と合わせて農業試験場「第三官園 (開拓使)」となり、1876年にはその一部に牧場が造られ「麻布の開拓使牧場」と呼ばれた(日本初の酪農試験場)。  (wikipedia・堀田正倫より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央左上に堀田備中守(堀田正睦)下屋敷が描かれています。]

東京都立図書館アーカイブ – 京橋南芝口橋築地鉄砲洲辺絵図(嘉永6[1853])」(絵図中央下に堀田備中守(堀田正睦)中屋敷と描かれています。)

カメラ位置は木挽町仲通りでカメラ位置付近一帯が佐倉藩堀田家中(下)屋敷跡になると思います。